OTO の コラム
コラムへ戻る

  1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 

2002年

皆さん、明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます
おとは12月31日から1月4日まで埼玉・蕨市と千葉・船橋市に行きました。
蕨では蕨市民公園で散歩をしましたよ。(1周600m)
いつも寝るのは20時過ぎでしたが12月31日は姪の子供も初詣に行きたいいため大変でした。
おとは24時過ぎに寝ました。
子供は1時過ぎに戻ったのことです。寝ていました。
3日朝は一人で始めて船橋・御滝不動尊に行きました。
3km歩いておとには1時間くらいかかりました。
皆さんのためにお祈りしましたよ。
そして、バスに乗って帰りました。
午後は姉夫婦と千葉みなとや幕張などに行きましたがほとんど休みでした。
4日4時半頃家に帰りました。疲れました。
02.01.05

障害者のスポーツ陸上大会
県身体障害者スポーツ大会の陸上競技会が去る5月19日に藤沢の県民スポーツセンターで開催されました。
本市より代表選手と応援団が市職員の引率でバスに乗って参加しました。
片マヒなため私は障害競歩(100m)に出ました。
優勝した選手は見事な早足で、私との差を20〜30もつけてゴールでした。
が、頑張った私も3位で銅メダルでした。
ソフトボール投げには8人が競い、最高記録は31m以上も投げて金メダル次は29m、
3位は16m、4位でも14mで日頃練習をしない私は13m26cmの成績でした。
藤沢ですから海の香りが風に運ばれて気持ちよく吹いて日射しも強く、
日焼けをしたかおや手などがお風呂で疲れをいやすお湯の刺激で痛い。
スタジアムの階段は私をはじめ障害で手足が悪い人には不規則で勾配がきつく危険です。
直してほしい。
02.05.25

ニ市運動会に行きました

NO 種目 対抗

出場者数

 
1 40m   18 おと参加
2 でかパンリレー 負け 12  
3 車椅子   40 来賓、希望者
4 つなひき 負け 10  
5 フライングディスク 勝ち 10  
6 パン食い競争   30 子供から
7 むかで競争   20 ボランティアから
8 鈴わり   全員  
昼 休 み
9 玉つきリレー   12  
10 大玉転がしリレー 勝ち 20  
11 スプーンレース   10 おと参加
12 さかなつり競争   20 おと参加
13 ニ市対抗リレー 勝ち    
14 玉入れ   全員  

ニ市対抗は逆転優勝でした
02.06.10

初夏の会津
7月3日〜7月4日、県身体障害者連合会肢体部で「初夏の会津」に行きました。
3日は市役所、7時半頃、出発しました。
バスは5号車で、綾瀬、海老名、大和と一緒で41名でした。
(1号車は三浦、横須賀、葉山、鎌倉。2号車は茅ヶ崎、平塚、大磯。
3号車は小田原、厚木、南足柄などでした。)
大和で集合しました。
県身体障害者連合・事務の渋谷さん、菊池さん、服部さん、森田さん、添乗員青野さん、
運転手さん、バスガイド岸田さんでした。
渋谷さん、青野さんから説明がありました。
一番問題は明日の喜多方ラーメン工場から会津村に変わったことでした。ラーメンは?
銀河高原で全車揃いました。
東北道を通って、宇都宮くらいから雨がふりました。
西那須野高原ICをおりて、銀河高原ビール、那須ビール園に着いて昼食をとりました。
ビールを飲みましたが350mlくらいで420円。
高いのであまり買いませんでした。でも美味しかったよ。
「ヨーロピアンエール酵母」
小麦を使った豊かなコクと味わい。無ろ過の酵母人りヴァイツェンです。
女性にも嬉しい300mlの丁度良い飲みきりサイズ。
ハーブのようなはなやかな香りとバランスのとれた爽快な苦味を高原の天然水がひきたてます。
銀河高原を出る時は、雨が止んでいましたがまだ降りそうな感じでした。
五色沼(毘沙門沼)に着いて、散歩(30分くらい)しました。道が濡れていたから近くまででした。
渋谷さんに頼んで青野さんとの写真を撮りました。
五色沼は檜原湖南端と秋元湖の間の火山泥流丘陵に散在する大小の沼を総称して五色沼をいう。
各沼はコバルトブルー、エメラルド、オレンジと、様々に異なった水をたたえ、林の中に静まっている。
最大の沼は毘沙門沼でボートもある。
近くには五色沼自然教室があり、磐梯高原の自然につて解説している。
[自然探勝路]五色沼人口〜毘沙門沼〜探泥沼〜弁天沼〜青沼〜るり沼〜柳沼〜磐梯高原駅
(所要約60分3.6km)
五色沼を出て、磐梯熱海温泉・ホテル華の湯(展望ひのき大浴場とひのき樽風呂、露天岩風呂、
さらに露天ひのき風呂と湯舎(ゆや)めぐりがお客さまに好評です。素肌に優しい「美人の湯」
を心ゆくまでお楽しみください。)に着きました。
急いで風呂へ行きました。食事は美味しかったビールも飲み早く寝ましたよ。
部屋は佐藤、川島、沼田、加藤、岸さんでした。
4日はホテルを出て、会津村に着きました。
会津慈母大観音を見に行きました。
螺旋階段をのぼるのは無理です。近くで皆さんとヒロリンさんにお祈りしました。
下りている服部さんと会いました。「覚えていますか?」
と聞いたら「えぇ、写真ありがとう」と言われ、写真を撮ってもらいました。
バス停の前にいた松尾さん達は行きませんでした。
バスに乗って1周しアヤメやアジサイなどが見えました。
お釈迦様誕生の地インドを向いている観音様は女性でむねに抱かれている初い子は男の子。
大手門を入り左側に25分の1の観音様で確認ができます。
観音様のお姿が決定した年が昭和57年、
体内には1万体の御仏をおまつりしております。
57才ということで57mとさだめられました。
会津村を出てレストハウス鶴ケ場館に着きました。
城は近いけど見えませんでした。
そして安積PAから市役所に着きました。
道路に32度と書いてありました。暑いはずだぁ。
8時前家に着きました。
運転手、バスガイド、添乗員、県身体障害者連合の事務員さん達、大変ありがとうございました。来年も!
川島、加藤、沼田、松尾さん等、色々有難う。
02.07.06 おと(@_@)

「国挙(こぞ)りて男女叫び唱(よば)ひて、不知(ま)東西(ど)ひぬ。則(すなは)ち山崩れ河涌く」。
日本書紀に684年に起きた地震の記録がある。
記録に残る最古の巨大地震で、白鳳(はくほう)大地震と呼ばれる。
海洋プレートが、海底峡谷のトラフで大陸プレートの下に潜り込み、ひずみが解き放たれて地震を起こす。
白鳳地震は大平洋岸に連なる南海トラフに震源を持つ海溝型地震とされる。
いにしえからの災害の記録は地震列島に住む者の宿命を考えさせられる。
「災害は忘れたころにやってくる」の言葉で知られる物理学者の寺田寅彦は、
自然の恐ろしさを身をもって知る日本人の意識の根底に「天然の無情」があると記しているのだが、
寅彦は「分明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増すことをわすれてはならない」
とも言った。
災害に人の営みがかかわることを指摘し十分の対策を訴えている。
今日、防災の日1923年のこの日関東大震災が発生した。
一昨年の今日、三宅島噴火で住民の全島避難が決まった。
昨年は新宿歌舞伎町で、死者42人を出す雑居ビル火災が起きた。
阪神大震災の取材で、がれきの中を塊が抜けるよな思いで歩いたことを思い出す。
人災の要素も随分あった。
自然の脅威に対するには限界もあるがだからこそ謙虚にもう一度何をなすべきか考えたい。
2002.08

ふれあいフェスティバル2002年9月15日
市および市社会福祉協会では、9月15日の敬老の日に「ふれあいフェスティバル」
を開催します。皆さんお誘い合わせの上、ご来場ください。
○と き 9月15日(日)午前10時〜午後4時
○ところ 市民文化会館(ハーモニーホール座間)、総合福祉センター(サニープレイス)
※市役所7階の展望回廊も解放します。
○内 容
[第1部]第29回福祉大会=自立更生表彰、援護功表彰、論文・作文・標語入選表彰、マリンバ演奏他
[第2部]第19回社協福祉まつり=大道芸、模擬店、福祉バザー、ビンゴゲームほか
○入 場 自由
今日は少し寒い感じでした。
朝10時頃、歩いて市役所(ふれあいフェスティバル)に行きました。
身体障害者協議会の人たちに会いました。
障害者の装具、パソコン、車いす、風呂やトイレ等を見ました。
「おとさん」と声をかけられ覚えがなかったのですが、
アガペの成沢さんでした。(去年IT講習会の時)
成沢さんと別れて装具を作る人に会いました。
おとの一番出来ない「手ぬぐいを絞る」を聞きました。
やはり、完全は無理かなぁ。
1時半からビンゴゲームが始まりました。おとは最初のゲットグループでした。
6人中4位でした。
ビンゴゲームが終わって、外に出たらなかなか良い天気でした。
雨がふると聞いていたのに〜。
みんなと別れて、家に帰りましたが汗でびっしょりでした。
2002.09.15

ハーブの上松美香さんにはまったおとでぇ〜す
待望の4thアルバムは、珠玉のスクリーン・テーマ・コレクション!! 華やかさ、
優しさ、懐かしさ、アルパならではの表現力と 最高のアレンジによって再現された
上松美香のシネマ・ワールド。 オリジナル新曲「テソリート」も収録!!
上松美香の新曲を聴きながら!!
今も〜〜

【曲   目】
1.ニュー・シネマ・パラダイス「ニュー・シネマ・パラダイス」〜「愛のテーマ」
   Nuovo Cinema Paradiso 〜 Theme D’amore
2.ロミオとジュリエット
   A Time For Us
3.タイタニック「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」
   My Heart Will Go On    
4.明日に向かって撃て!「雨にぬれても」
   Raindrops Keep Fallin’ On My Head
5.サウンド・オブ・ミュージック・メドレー
 「サウンド・オブ・ミュージック」〜「ドレミの歌」〜「私のお気に入り」 〜
「エーデルワイス」〜「サウンド・オブ・ミュージック」
 The Sound Of Music〜Do-Re-Mi〜My Favorite Things 〜Edelweiss〜The 
Sound Of Music 
6.エデンの東
   East Of Eden
7.ライム・ライト「エターナリー」
  Eternally“Terry’s Theme”
8.白い恋人たち
   13  Jours En France
9.風と共に去りぬ「タラのテーマ」
   My Own True Love
10.ティファニーで朝食を「ムーン・リバー」
   Moon River
11.王様と私「シャル・ウィ・ダンス」〜マイ・フェア・レディ「踊りあかして」
   Shall We Dance? 〜 I Could Have Danced All Night
12.テソリート ・・・・・ オリジナル曲
   Tesorito
2001.10.14

秋は運動会の季節
 10月運動会の季節である。 ちょうど大陸の乾燥した冷たい空気が日本列島に流
れ込み、大気の澄んだ秋晴れの時期となる。 昭和39年(1964年)の東京オリ
ンピックの開会式を10月10日ときめたのは、気象統計上、最も晴天の可能性が高
いからだと言われ、それにちなんで、元の「体育の日」が決められた。
 そもそも運動会の始まりはいつか。 それは明治7年(1874年)、東京・築地
の海軍兵学寮で催されたアスレチック・スポーツ、つまり競闘遊戯会で、英国人教師
の指導による徒競走や走り高跳び、三段跳び、ボール投げなどの競技からなるもので
あった。
 同11年(1878年)には札幌農学校で、その5年後には東京大学でも開催され
るようになり、坪内逍遥の「当世書生気質」や夏目漱石の「三四郎」など文芸作品に
も登場している。 二葉亭四迷の「浮雲」では、飛鳥山の運動会へ行く息子に小遣い
をせびられた母親が、まだ運動会のことをよく知らず、「飛鳥山でうどん会……」と
間違える場面が描かれている。
学校行事として明治期から普及
 学校行事としての復及は、明治18年(1885年)に初代文部大臣となった森有
礼が、体育による集団訓練を重視して学校教育に兵式体操を導入し、その公表の機会
として運動会を奨励したことによる。 イギリスの哲学者ジョス・ロックは教育にお
ける知育・徳育・体育の三者の調和の常用性を説いたが、森がアメリカ滞在中に痛感
したのは、特に欧米人の「身体能力の欠乏」であった。
 その後、体操が小学校の設備が義務付けられた。 すると、次第に運動会は学校児
童だけでなく、父母や地域住民が弁当持参で参加する1日がかりの一大レクリエー
ションとなっていった。 そして、陸上競技など運動能力を競うもののほうが、ダン
スや障害物競走、パン食い競走など娯楽的種目も含まれ、また、綱引きのように、元
来は農村や漁村の豊凶を占う神事儀礼であったもの導入された。 万国旗の下での開
催式や入場行進など、新しい儀礼的要素も組み込まれ、伝統的な農村社会にとって
は、神社の秋の収穫祭とは別の全く新しい秋の年中行事としての位置を占めていっ
た。
 このように、運動会は近代の所産であり、その歴史は新しい。 しかし、人々が運
動を楽しんできた歴史は古い。 平安貴族の蹴鞠や射礼、古代中世の武士の流鏑馬、
犬追物む、それに江戸時代の馬術や剣術の御前試合など、日本古来の武芸や遊戯は多
彩であった。
 スポーツはルールのもとのスポーツマンシップを育て、泰平の世での武芸のたしな
みは武道の心得を育ててきた。 身体競技は技能の訓練とともに、精神の鍛練をもも
たらしてくれる。
「憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力ためさむ」。 様々な作者の名
が挙がる不思議な歌であるが、中国地方では毛利元就に主家を滅ばされた伝説的な武
将・山中鹿之介の歌と言い伝えている。 鍛錬が生むネバー・ギブアップの心境を詠
んだ歌である。
2002.10.16

昨日、第17回座間市民ふるさとまつりに行きました
「心ふれあい 夢はばたく 13万市民」をテーマに、「市民ふるさとまつり」が開
催しました。 今年で17回を数えて多くの人が来ました。
会場では、パレードや子どもショー、和太鼓演奏、新鮮野菜・魚・肉、模擬店バザー
など行っていました。 着いて、コーヒーを飲んで休みました。 その時、沼田さん
と会いました。 歩いて、品物を見ながらいたら身体障害者協議会の席に着いて、会
長たちと会いました。 金子さんたちや徳永さん、井上さんたちとも会いました。 
何か食べたり、買ったり、お金を使いすぎでした。 パレードショーがありました、
いっぱいありました。
疲れた おとてぇ〜す
2002.11.10  おと

稲の収穫感謝する新嘗祭
11月は伝統的には新嘗祭の月、稲の収穫を祝う月です。 しかし、現在では、既に
9月から10月にかけて収穫はほぼ終わっており、11月は収穫を祝うというより
も、紅葉を眺めながら、年末を意識し始める季節という人の方が多いのではないか。
収穫が早くなったのは稲の品種の変化にもよるが、それ以上に昭和40年代から50
年代にかけての農業の機械化によるところが大です。 人間の手による稲刈り比べる
と、コンバインは約50倍、つまり50人分の作業能力を持つと言われています。
それまでは、手間借りとか結いなどと呼ばれる近隣農家の共同労働による稲刈りで毎
日が明け暮れ、その後も乾燥から脱穀、もみすりなどの調整へと、天候に左右されな
がらの重労働が続きました。
米表も自家製で、一表ごとの表詰め作業も重労働であった。 冬の訪れが早い東北地
方では九月下旬から10月まで、比較的暖かい九州地方では10月から11月まで農
家はそれこそ猫の手も借りたいほどの忙しいのです。
11月23日の勤労感謝の日は昭和23年、「国民の祝日に関する法律」によって定
められたものであるが、それ以前は新嘗祭と言い、稲の収穫を祝う日として、明治6
年に国の祭日に設定されました。 そしてそれは長い歴史を継承した祝日でありま
す。
新嘗祭は「古事記」や「日本書紀」の時代にまでさかのぼる。 律令国家の制度で
は、11月中または下の卯の日と翌日の辰の日の二日間を中心にした行事でした。 
卯の日の夕刻に入浴斎戒した後、宮中の神嘉殿において、天皇が神殿で作った神酒・
神饌を神々とともに食る祭儀を深夜に二回繰り返すものです。
辰の日は豊明の節会で、豊楽院もしくは紫宸殿に天皇が出御し、新穀の御膳と白酒・
黒酒が群臣にも振る舞われ、舞姫による麗しい御節の舞が披露されました。 
室町中期の後花園天皇の時に中断した後、江戸時代に再興され、以後幾たびかの変遷
を経て、明治22年からは皇居吹上御范に新設された神嘉殿で行われました。
東南アジアの国々も同様であるが、稲作文化を形成した社会においては、米は単なる
食物ではなく、稲魂という観念が顕著です。 日本でも伝統的に特別な生命力、霊力
を持つのと考えられました。
正月の年玉の由来は、米餅が年取りのための魂と考えられましたからであり、出産時
の産飯や死者に供える枕飯は、あの世の境目にいる者たちの霊魂を安定させるための
ものです。 米を撒いて清めや祓えするのも米の霊力を信じたからです。
戦後の食糧難を経て、アメリカから輸入した小麦を主とする食習慣が定着してきた感
じがあるが、新鮮な魚に醤油、それに米飯と日本酒がなくなるようなことはまずある
まいでしょうね。
「天地と久しきまでに万代に仕えまつむ黒酒白酒を」。 新嘗祭の祝宴に際し、天地
と共にいつの世までも久しく、新穀の米で醸した黒酒白酒を供え祝いたいものだとい
う心境を詠んだ文室真人智努という人物の歌です。
                  2002.11.11 おとより

     瀬見の小川
京都・下鴨神社の境内を歩いた。 瀬見の小川にかかる紅葉橋に立つと、赤く染まっ
たカエデの葉が、鮮やかだ。 見ごろは例年より早そうです。
本殿近くに小さな庵(いおり)が、ひっそりりしていました。 この神社の神職生
まれた鴨長明が、志を得ず隠れ住んだ「方丈」を復元したものです。 約3?
四方しかない簡素なもので、組み立て式になっています。
平安末期から鎌倉初期にかけての歌人長明は方丈で隠とん生活を送りながら「行
(ゆ)く河の流れは絶えずして…」と、無常観をたたえた方丈記をものした。 庵
は、わびしさと静けさに満ち、舞い落ちるひとひらの紅葉に通じる、閑寂の風情があ
ります。
同じ隠とんの歌人でも、サクラを愛した西行と比べて、長明に紅葉を配する所以(ゆ
えん)だろう。 だが秋の色づきは、寂しいだけのものではない。 庵のそばのイ
チョウは見事に黄葉し、空に向かってたちのぼる炎を連想されています。
作家の栗田勇さんが、「花を旅する」(岩波新書)で、「もみじには二つの顔があ
る」と書いています。 一つはわび、さび。もう一つは全山これ燃え上がるようなも
みじ。 しみじみと見る色合いと、激しい生命力を感じさせる豪奢(ごうしゃ)な美
と言おうか?
紅葉黄葉の二面性が、人を引きつけていますね。 境内には、落ち葉を拾て見入る女
性や、燃えるような木々を陶然として眺める恋人がいました。
                  2002.11.17 おとより

長野旅行(18〜19日)

市役所ロータリー・集合のため、AM7時歩いて行きました。
45分頃、着いて会長以下皆さんに挨拶しました。 出発して、山口さんが後ろの座席にいました。
ボランティアの上間(大学生)さんを連れて来ました。 東名高速に乗って足柄IC(トイレ休憩)に着きました。
途中、富士山が見え始めました。 真っ赤に紅葉していました。
河口湖、大月、甲府を見ていると、紅葉は最後のチャンスかなぁと思いました。
双葉ICでトイレ休憩でした。 南アルプスが見えるようになりました。
信濃路を通っていくと、おぎのや諏訪店(昼食)に着きました。 釜めしを食べました。 そして、SUWAガラスに行きました。  
時の流れを超えて、わたしたちを魅了してやまないアール・デコの芸術。20世紀初頭の魅惑の時代に、
数々の美しい作品を残したガラス工芸家がいました。
当美術館は、アール・デコの頂点に輝いたルネ・ラリック(1860-1945)の作品を専門に収集・展示しています。
水晶のように無色透明なガラスがかもし出す、繊細で幻想的な光の造形を、心ゆくまでお楽しみ下さい。  
SUWAガラスを出て、ビーナスラインに行きました。 去年から料金が無くなったとの事でした(良いことだ)。 
霧ヶ峰、車山、白樺湖、女神湖を通って、長門牧場に着きました。 風が強くてもの凄く寒かったですよ。 
牧場を出て、白樺湖レイクサイドホテル山幸閣着きました。 温泉で温まり、宴会に行きました。 
良く飲んで、食べて、最高でした。 PM8時過ぎ、宴会が終わって、一緒に泊まった会長と加藤さんがどっかで飲みに行きました。
私はテレビを見ていましたが寝てしまいました。 会長に「布団をかけないと風邪引くよ〜」と言われました。 PM10時過ぎでした。
昔は「会社の山荘(今はない)が有って、山荘を拠点にビーナスラインや高山、戸隠、木曽福島、黒四ダムなどに行ったなぁ」と思いました。
朝飯を食べてから散歩に行きました。 寒いけど空気は良いし、白樺湖を近くで見たし、気持ちが良かったです。
ホテルを出発して、蓼科、ピラタスを通って、茅野市内、中央高速に乗って、松本市まで行きました。
紅葉や北アルプスが見えました。 そして、安曇野ちひろ美術館に着きました。 
安曇野ちひろ美術館は、1997年にちひろの心のふるさとである安曇野の地につくられました。
周囲には3万5千平方メートル安曇野ちひろ美術館は、1997年にちひろの心のふるさとである安曇野の地につくられました。
周囲には3万5千平方メートルの安曇野ちひろ公園が広がり、北アルプスから流れ出る清流、乳川(ちがわ)がその脇を流れています。
 この美術館はちひろの絵に出逢う場所であるとともに、ちひろ美術館が収集してきた世界の絵本画家の作品が展示されているところです。
 建物は、日常生活から開放されて、ゆったりとくつろぎながら時を過ごせるように設計されています。
館内には落ち着いて絵との対話を楽しめる展示室はもちろん、芝生に出て絵本が読める図書室や、木のおもちゃなどで遊べる子供の部屋、戸外の風に吹かれながらアルプスの山並みを眺め、飲み物や軽食を楽しめるカフェ、田園風景を楽しみながら絵本やミュージアムグッズの買い物ができるショップなどがあります。
 また、絵本の歴史を楽しく知ることが出来る展示室や、本格的に絵本を勉強したい人のためには、貴重本や資料を閲覧できる申し込み制の資料研究室もあります。
 公園には、復元されたちひろの黒姫山荘やチェコの絵本画家パツォウスカーがデザインした池や石のオブジェなどがあり、四季折々の表情を見せる花や木立の間を散策したり、川辺におりることもできます。
美術館を見終わって、安曇野のワラビを見ながら行きました。 川を見ていると水が透けていますね。 
空気も良いし、二、三日ゆっくり休みたいですね。
そして、昼食にソバ(安曇野スイス村)を食べましたがやっぱり美味しかったでしたよ。 買い物などをして、出発しました。 松本〜甲府〜河口湖〜厚木〜市役所にPM5時半頃着きました。
 家にはPM6時頃着きました。 運転手さん、ガイドさん、皆さんのお陰で楽しい旅行になりました。 また、行きましょうね。
2002.11.22 おとより

「はつかり」
雁(かり)は秋に北から飛来し、春には帰っていく。 小林一茶は「今日からは日本
の雁ぞ楽に寝よ」と初雁を迎えた。 「鳥帰る無辺の光追ひながら」(佐藤鬼房)と
俳人が見送った鳥も雁であったか。
JR東北線の特急「はつかり」の名はその渡り鳥にちなんでいる。 上野―青森を初
めて走った1958年(昭和33年)は戦前を引きずらない若者がつくった年ともいわれて
いました。
長嶋茂雄さんが「背番号3」で華麗にデビューし、石原裕次郎さんが「嵐を呼ぶ男」
で銀幕の人気をさらった。 日劇ウエスタン・カーニバルで若者がロカビリーに熱狂
したのもこの年でした。
折しも復興から高度成長へ、日本経済にも戦前を引きずらない一ページが開かれよう
としていました。 担い手となる集団就職の“金の卵”たちを乗せて走った「はつか
り」は時代の申し子のひとりであったかも知れない。
「無辺の光」を追う雁のように都会での生活を夢見ながら、この列車に揺られた人は
多かったはずです。 夢破れた人のなかには、「楽に寝よ」と迎えてくれる故郷へ帰
るため、傷心の身を座席に沈めた人もいたでしょうね。
来月1日に東北新幹線が八戸まで延びるのに伴い、「はつかり」は今月いっぱいで姿
を消す。 「雁(かりがね)や残るものみな美しき」(石田波郷)…。 消えゆくも
のが残す思い出もまた美しいでしょう。 本当に良かったよ〜〜。
                   2002年11月28日 おとより

忘年会と「社会福祉週間(12/5〜12/11)」
「海の神」ネプチューン。 「酒の神」バッカス。 19世紀のイタリアの愛国者、ガ
リバルディは、液体に縁の深い神々を引き合いに警句をひとつ残しています。
「古来、バッカスはネプチューンよりもずっと多くの人を溺死(できし)させ
た」…。左党には耳が痛い。 味方してくれそうな言葉を探せば、吉田兼好の「下戸
ならぬこそ、男はよけれ」、井原西鶴の「世の中に下戸の建てたる蔵もなし」あたり
だろうか。
肝臓も財布もいたわりたいのだが、ガリバルディ一人に兼好・西鶴の二人がかり。 
“衆寡敵せず”でこの季節、ついつい紅灯の巷(ちまた)にさまよい出て、あとで反
省しきりの人も多いでしょう。
酒が害するのは自分の体だけとは限らない。 首都圏のJR駅構内で、駅員が酔った
客から暴行を受ける事件が増えています。 忘年会の時期を中心に年間百件余り。 
最近は口論の前にいきなり手を出す凶暴な例が目立ちます。
これまでJR東日本は「酒の上の過ち」として穏便に処理してきたが、事件はいっこ
うに減る気配がない。 業を煮やし、来月からは温情主義を捨てて直ちに刑事告訴す
ることになった。 
駅で酔虎伝を演じる二人に一人は40―50歳代の男性である。 不況風に何かと心ささ
くれて、「酔へばあさましく酔はねばさびしく」(山頭火)…のご時世だが、くれぐ
れも御身にご用心して下さいね。「社会福祉週間(12/5〜12/11)」
我が市では
12月8日(日) 午前10時〜午後3時30分
市立ち総合福祉センター    入場無料
講演会  講師   鈴木治彦氏  
鈴木治彦氏司会、トークショー、講師、講演、テレビラジオとマルチ的に大活躍中の
ベテランキャスターです
     テーマ  「鈴木治彦 思いやりのすすめ」
おとは私用があるため行きませんが近くの人は見に行きましょう。
                     2002.11.30    おとより

冬至の行事の背景は?
12月は年の暮れ、時間が経つのは本当に早いですね。 日照時間もどんどん短くな
りました。 冬至は、現在は12月23日ころだが、旧暦の太陽太陽暦では11でし
た。 この日は古代中国の天体思想では太陽の運行の出発点で、24節気など暦の起
点とされ、天の祭る行事が行われました。 特に、冬至が11朔(1日)に当たる朔
旦冬至といって、日本でも奈良時代から江戸時代まで千年以上も、歴代の宮中で19
年ごとに、祝賀の行事が伝えられていました。
冬至は、太陽の光が弱まって動植物が衰弱し、農耕生活に一種の危険が訪れると感じ
られた日でした。 同時に、日照時間が再び延び、新しい太陽が輝き始める日でもあ
りました。 従って、この日を陽気が回復し生命力が再生、復活する一陽来復の節目
とする信仰や行事が、民族の中には数多く伝えられました。
 冬至唐茄子とか冬至カボチャと言って、この日はカボチャを食べると中風にならな
いとか、柚子湯に入るとひびやあかぎれを治し、その冬は風邪を引かないなどといわ
れます。 小豆粥、餅、コンニャクなどを食べる地方も多いです。
 カボチャは16世紀にポルトガル船によって伝えられ、全国に広まったが、江戸時
代の歳時記類には冬至のカボチャの記事はありません。 明治以降に広まった習俗の
ようです。 柚子湯も、江戸末期の天保9年(1838年)刊の「東都歳時記」に銭
湯で流行り始めたと記されています。 古くからの行事のように見えて、以外と新し
いものが民俗の中には含まれているものなのです。
 一方、かつて東北地方から山陰地方へかけて伝えられていたダイシガユの伝承は、
冬至の意味を考える上で注目されました。 旧暦11月23日夜、ちょうど冬至前後
の吹雪の晩に、ダイシサマが身なりを変え、家々を訪れるという伝承です。
 家々ではこの晩、小豆粥や団子を作って供えるが、粥には塩を入れない。 ダイシ
サマが貧乏で子供も多く塩を変えなかったためとか、吹雪に晩に塩を買いに出て行き
倒れになったからなどと言われています。
 また、この晩必ず雪が降るのは、ダイシサマをもてなそうとして、隣家から食糧を
盗んだ貧しい老女の足跡を隠すためなどと言い伝えています。
 つまり、これらの行事や伝説の背後には、太陽の力が最も衰える時期に、生命力の
再生と復活をもたらす聖なる訪問者が、貧しい旅の僧に身をやつして家々を回るとい
う信仰があったのです。 どこかサンタクロースを彷彿させる伝承です。 冬至は冬
の真っ最中であるが、本格的な寒さはこれからです。 慌ただしく正月準備を終える
年末は、流れていく時間が惜しまれる時でもあります。
 「とどめばや流れて早き年波のよどまぬ水はしがらみもなし」。 「新勅撰和集」
に収められた入道二品親王道助の歌です。 いつの世も時の流れは速いものと嘆かれ
たのでしょう。
2002.12.10 おとより

   「忠臣蔵」
「万山(ばんざん)重からず、君恩重し。 一髪(いっぱつ)軽からず、わが命軽
し」。忠臣蔵でおなじみの大石内蔵助の言葉として伝えられる。 携えた小刀に銘と
して彫り、復(ふく)讐(しゅう)への誓いを日々新たにしていたという。
吉良邸に討ち入り、本懐を遂げたのは元禄十五年の陰暦12月14日。 いまの暦に
直すと1703年1月30日の出来事になる。 芝居でも討ち入りに雪はつきものだ
が、1月であれば江戸の雪もそう意外ではない。 
京・高輪の泉岳寺はきょう、恒例の「義士祭」でにぎわうことだろう。 先日、12
月としては異例の大雪が東京を見舞い、通勤通学の足を乱した。「 討ち入りから3
00年」を記念した、天のちょっと迷惑な演出だったかも知れない。
銀座の和光ホールで書の個展、「書、そして、忠臣蔵」を見た。 「殿中でござる」
「白刃一閃(いっせん)」「昼行燈(あんどん)」…。 書家、矢萩春恵さんの忠臣
蔵に想を得た作品が並んでいる。
思いがけない詩にも出会った。唐代の詩を井伏鱒二が自在に翻訳した「勧酒」。 コ
ノ盃(さかずき)ヲ受ケテクレ/ドウゾナミナミツガシテオクレ/花ニ嵐ノタトヘモ
有ルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ。
志を胸に秘め、京都・祇園で遊蕩(ゆうとう)にふけってみせる内蔵助(芝居では大
星由良之助)。 誓いの小刀に手をやりつつ、「サヨナラ」ダケガ人生ダ…とつぶや
く姿を枯淡の墨いろに重ねた。
                2002.12.14 新聞より

 昔はお正月だけじゃなかったおせち料理
昔は1年の中に5つの節目の日があって、五節供(ごせちく)(※注1)と呼んでいた。
節供(せちく)は日々の生活の中で節目の日にあたり、特別な日とされていたので、その
季節その季節の収穫された海の幸や山の幸を神様へ供えて、自然の恵みに感謝すると
共に、五穀豊穣を祈ったんだって。そして供えたものを下ろしてを料理したものを
『節供(せちく)料理』と言って、年中行事の時に皆でいただいたのが、おせち料理
の始まりなんだって。
お雑煮の起源
お雑煮でお正月を祝う習慣は室町時代に始まった。
神様へのお供えを下ろして食べると日々の生活に新たなパワーが生まれるとされてい
たん
だって。それで、大晦日の日に神様(年神様)(※注2)にお供えしたお餅を1月1日(元
旦)に新
鮮な水・新しい火で、海と山の幸をひとつのおなべで煮て食べる慣わしがあった。こ
れがお雑煮の始まり。
お雑煮を祝うっていう言い方も、神様と自然の恵みとに感謝する気持ちから来てたん
だね。
                        2002.12.24 おとより