OTO の コラム
コラムへ戻る

  1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005

2004年

『冬至 』

 冬至には暖まるゆず酒で…

 気が付くと、段々日が暮れるのが早くなっていくと思っている人、多くないですか。最近は5時を過ぎるともう真っ暗ですよね。しかし、冬至を境にしてまた日が長くなっていきます。

 冬至は暦で言う二十四節気のひとつです。この日は太陽がもっとも南にくるときで、一年中で昼間が一番短く、夜が一番長い日です。今日の暦では12月22、23日頃がそれにあたります。

 冬至にはかぼちゃを食べる習慣が残っていますが、冬にビタミンなどの供給源が不足していた時代はかぼちゃのような野菜は貴重なものだったためにそれを食べる事でビタミンを補給し、風邪やしもやけにならないという昔の人たちの知恵だったのでしょうね。一部の地方では,レンコン,みかんなど,「ん」のつく食べ物を7種類食べると幸福になれるともいわれています。

 また「ゆず湯」がつきものですが、この時期はゆずの最盛期です。ゆず湯は、疲労回復や神経痛に効果あるのですが、冬至を「湯治」にかけて「身体に融通(ユズ)をきかせる」というごろ合わせでも使用されていました。

 ゆずは食べても健康にいいもの。そこでこれからの寒い時期に体のあったまる「ゆず酒」を紹介します。ビタミンCが豊富な上、肌荒れや冷え性に効果的です。

 「ゆず酒の作り方」

 材料:黄ゆず…500g、氷砂糖…70g、ホワイトリカー…900cc

・ ゆずを水洗いしてよく水を切り、ふきんなどで水気を拭き取ります。

・ リンゴのように皮をむきます。この時、なるべく白いワタの 部分が実に残らないようにむき、果実に残ったワタの部分は更に丁寧に取り除くのがポイントです。

・ 実を横半分に切ります。身が柔らかいのでつぶれないように注意しましょう。

・ 実と先にむいた皮を瓶に入れ、砂糖とホワイトリカーを入れて密閉し、冷暗所に置きます。皮は苦みも出るため、1週間後に取り除きます。

・ 1ヶ月半ほどで出来上がり。中の実を出し、ガーゼなどで漉してお酒を保存します。

             2004.12.21 情報より

『高松宮妃喜久子さま』
 三重県四日市市に住む目の不自由なマッサージ師夫婦のもとに、高松宮家から手紙が届きました。「目の手術に、ご上京なさい。治療費のことは心配いりません」。
 話はその一年ほど前にさかのぼる。市内のホテルに宮様ご夫妻が一泊なさった。妻は妃殿下のもみ療治をし、問われるままに身の上話をした。帰京された妃殿下は専門医に夫婦の診断を依頼した。結果が出たのを受けて書かれた手紙でした。
 「開眼の贈りもの」という記事は1962年(昭和37年)6月の本紙に載っていました。きのう92歳で亡くなられた高松宮妃喜久子さまの魅力は、心の肌理(きめ)のこまかさ、柔らかさであろう。
 最後の将軍、徳川慶喜の孫として生まれた。晩年の慶喜に抱かれた、赤ちゃんの写真が残っています。NHKの大河ドラマ「徳川慶喜」では、祖父の役を俳優の本木雅弘さんが演じた。
 収録風景を見学にいく喜久子さまが、「おじじ様に抱っこされに行く」と語ったという話が伝わっていす。「私が抱かれたらモックン(本木さん)は潰(つぶ)れるわよ」と、回想録「菊と葵(あおい)のものがたり」を見える。
 紀宮さまを孫のようにかわいがり、結婚を心待ちにされていたという。温かいまなざしと、老いて弾みを失わない心は、人生の新しい扉をひらく人に遺(のこ)した心づくしの道しるべでもあろう。

             2004.12.20 手帳より

『小さな殻』
 国際関係論の研究者である吹浦忠正さんが、ある大学の講義で学生のひとりに尋ねた。「きみ、真珠湾はどこにありますか」。学生は「うーん」と唸(うな)り、答えたという。「三重県です」。
 吹浦さんは「今度はこっちが唸った」と書いています。真珠の湾だもの…と、知恵を働かせたつもりかも知れない。
 東大の総長を務めた南原繁氏は1941年(昭和16年)、日米開戦のその日を頬(ほお)がこわばるような悲壮感をたたえた歌に詠んでいます。「人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ」。今年も12月8日がめぐって来ました。
 歴史の「もうひとつの12月8日」、1596年(慶長元年)のその日、豊臣秀吉はキリシタン弾圧の厳命を下したとも伝えられています。「長崎の鐘」の永井隆博士は死の床で子供たちに語って聞かせました。
 「12月8日という日は日本にとって忘れられぬ日だね。どちらも世界の文明国と絶交して、小さな殻の中へ閉じこもった日だ」。
 平和の尊さをかみしめるにせよ、散華した御霊(みたま)に手を合わせるにせよ、あるいは、一国平和主義という現代版の「小さな殻」を見つめ直すにせよ、語り継がれてこそだろう。「三重県です」の迷答には、おもしろうて、やがてさびしき響きがある。

             2004.12.09 手帳より

『弱者に優しい社会へ一歩』
 新潟中越地震後、一時は千人もの市民が不安な夜を過ごした同小千谷市の市総合体育館。正面玄関を入ると、救援物資が積まれ、応援メッセージなどでカラフルに彩られたスペースの一角に、耳のシンボルマークを描いたポスターが張られています。「このマークをつけた方には筆談で」という呼びかけだ。
 車イス用のスロープ、身体障害者専用のトイレ、点字ブロックといった、設備のバリアフリー可が整っている体育館だが、大勢が避難しただけに、予想もつかないことが起きました。
 ます、トイレ。玄関前に仮設トイレが設置されたが、長雨のため、外に出るのをためらう高齢者も少なくなく、ポータブルトイレを急きょ配った。「トイレが近い場所に」との要望に応じて、車イスの被害者の寝る場所を移したこともあります。
 耳のシンボルマークは、聴覚障害者が避難しているのに気づいた市内の要約筆記(会話や発言をメモやワープロで記すこと)サークルがメンバーが用意した。「バリアフリーといっても、職員やボランティアの工夫がなければ、だれもが安心できる避難所にならなす」。
 ボランティア文化を日本に根付かせた阪神大震災を例に挙げるまでもなく、災害は社会の連帯を深め、人を思いやる気持ちをはぐくむ。神戸市では2002年から、油2バールデザイン(UD)による街づくりに本格的に取り組んでいるが、震災と無縁ではない。「震災で人と人とのふれ合いが生まれた。心のUDという素地を、街づくりに生かせたら」との発想が原点でした。
 水害をきっかけに、UDを進めた学校もありました。2000年9月の東海豪雨で冠水などの大きな被害を受けた愛知県西枇杷島町。近くの名古屋市立枇杷島小学校は避難所となったが、体の不自由な高齢者にとり、体育館の段差などが障壁になりました。
 学校施設は災害時の避難所となるだけでなく、地域の交流の場として利用される機会も増えています。「障害のある児童はもちろん、高齢者などにも優しい施設に」と、同小では車イスでも使える手洗いや階段昇降機を設置したほか、障害者や高齢者を思いやる気持ちを育てる教育に取り組むようになりました。
 今も住民に多大な犠牲を強いる中越地震。災害弱者へのまなざしが、新たな社会を開く扉となれば…………。関東はいつか?その時は?

             2004.11.23 中越地震1ヶ月たって

『夏以降の台風や豪雨で』
 山形県の庄内平野で米作りをしている人によると、今年は猛暑と相次ぐ台風の襲来で例年の七割程度しか収量がなかったとの事です。秋田県にかけての沿岸部一帯で、特に打撃が大きかった。
 塩分を含んだ熱風が穂が出てまもない水稲の上を吹き続け、稲は枯れたり、せっかく実った籾(もみ)も落ちてしまったりした。収穫目前だったナシと柿もほぼ全滅し、ビニールハウスに被害を受けた人も多かったでしょう。
 米の収穫の多さを競う恒例のコンテストも中止となり、ほとんどの農家が、大幅な減収となった場合に支払われる水稲共済金の申請をしました。この地方は昨年は冷害に遭ったが、今年はそれどころではない「忘れ得ぬ厳しい年」になったと思います。
 この厳しさは庄内平野だけのものではない。農林水産省によると、この夏以降の台風や豪雨による農林水産関係の被害は6800億円に上り、過去10年で最悪だと言われます。今年産米の作況指数も、平年を下回りました。
 しかもこれには新潟県中越地震の影響は含まれていません。地震の被災地でも水田が土砂に埋まったり流されたりしました。被害額はどこまで膨らむことか?
 店頭には豊富な農産物が並んでいるが、見事な商品を作るまでの生産者の苦労にまでは、なかなか思いが至らない。自然の威力と自然の中で生かされていることを痛感させられる年です。

             2004.11.06 手帳より

『新潟中越地震』
 〜「天災に"人災"を重ねてはならない」〜

 新潟県中越地震が発生して一週間になりました。
 住み慣れたわが家を離れ、各地の避難所で生活している人は今も八万人を超える。余震を恐れ、自家用車の中で夜露をしのいでいる人たちも多い。
 日本各地からの支援もあり、食料や飲料水は行き渡り始めた。電気や水道などのライフラインも徐々に復旧が進んでいます。だが、長期にわたる避難生活にいつまでも耐えられるものではない。「もう限界」という声も聞かれる。
 被災者一人ひとりが今、何を一番求めているのか。それを敏感にくみ取り、できる限り応えていくことが、これからは重要になる。
 被災した住宅をどう再建するか、元の暮らしに戻れるか、と悩んでいる人は多いだろう。体の不調をこらえている人もいるだろう。仕事ができず、生活が不安で眠れないという人もいるだろう。
 国や県、関係自治体は、被災者たちの多様な不安に、的確に対応できる体制を速やかに築かねばならない。
 避難の長期化に伴い、ストレスなどが原因で亡くなったとみられる人は、すでに犠牲者の半数を超えている。
 エコノミークラス症候群という、過去の災害では聞いたこともない原因による死者まで出ている。飛行機などで同じ姿勢を長時間続けることにより血の塊ができ、脳や肺の血管を詰まらせる。
 新潟県によると、自動車で避難生活を送っていた被災者四人が、この症状で亡くなったという。姿勢を変えたり、水分を多めに取るといった予防策を呼びかけるなど、きめ細かい対策が必要だ。

 対応の遅れで、「天災」に「人災」を重ねることは、なんとしても避けねばならない。  国は、被災地の近隣にある温泉旅館やホテルなどを借り上げ、一時的に避難所として活用してもらうことを検討している。たとえ数日間でも、他人に気兼ねなく休めるはずだ。実現を急ぎたい。
 同時に、仮設住宅の建設を加速し、早期の入居を目指すことも必要だ。  被災地で活動する関係市町村の職員や医療関係者らの疲労にも配慮が要る。交代要員の確保や派遣など、国や県の一層の支援が求められる。
 復興に向けた中長期的な取り組みもこれからが重要になる。県が主導して具体的な計画をまとめ、速やかに実行に移さなくてはならない。
 大規模な土砂崩れにより、集落全体が被害を受け、帰還のめどが立ちにくい地域も多い。被災者が将来への希望を抱けるような復興策が急がれる。子供達が学校で会えたとの事です。

             2004.11.01 新潟中越地震は

『闇と絶望から光と希望へ』
 目、耳、口の自由を二歳で失ったヘレン・ケラーが最初に覚えた言葉は「水」であったと言われます。サリバン先生がヘレンの左手に井戸水をかけ、右の手のひらに指で「W…A…T…E…R」と書きました。
 それが、「私の手を流れる、すばらしい、冷たい何か」についた名前であることを知る。水が魂を目覚めさせ、「光と希望」を与えてくれたと、自伝で回想しています。
 大きな災害が起こるたびにケラー女史の挿話を思い出す。病気になって健康のありがたさに気がつくように、身近な存在の水に「光と希望」を見るのも尋常な時ではないのだろう。
 「水…パン…もうふ」「SOS」と、道幅いっぱいに白い粉で書かれた文字が並んでいます。新潟県中越地震の被災地を空撮した写真を見ていると、書いた人の悲痛な声が聞こえます。
 寒さが募る避難所には、心身を暖める「水」――風呂や温かいみそ汁を待つ人々もいます。自治体職員や自衛隊員の方々は不眠不休で被災者の救護にあたっていることだろう。もうひと踏ん張りをお願いしたいです。
 被災地には冷たい雨が降りつづく。地盤が緩めば、余震が新たな土砂災害につながりかねない。全村に避難指示が出た山古志村では、倒壊をまぬかれた家屋にも水没の危険が迫っているという。魂を「闇と絶望」で濡(ぬ)らす非情な水もあります。今日も余震がありました。体を気を付けて下さいしか言えません。
 被害された皆様に、心からお見舞い申し上げます。そして、救援に向かわれる数多くの団体のご活躍をお祈りして下さい。

             2004.10.27 手帳より

『謙虚』
 伊勢湾台風が襲い、5000人を超す死者・行方不明者が出たのは1959年(昭和34年)の秋でした。教師で歌人の久保田安治さんは詠んでいます。「伊勢湾台風の罹災者(りさいしゃ)なほ屋根にあり宇宙ステーション軌道にのる日も」。
 ソ連のロケットが月の裏側の撮影に成功するなど、宇宙の夢に世界が沸いた年でありました。英知を誇る人間も、自然の前には小さな存在でしかないのです。偉大にして卑小、人類のもつ二つの顔が一首の眼目だろう。
 湖に白いボートが浮かんでいるように見えた。水に没した観光バスの屋根の上で、乗客と乗務員30数人が救出を待っている映像に、総毛立つ思いで見入った人もいるでしょう。  死者・不明者は80人以上、平成に入って最悪の傷跡を残し、台風23号が去って行きました。火星にロボットを送り込む時代になっても、「罹災者なほ屋根にあり」の風景は変わらないでしょう。
 今月上旬に22号が列島を縦断した際に千葉県鎌ヶ谷市では、防災担当の幹部職員4人が台風の接近を知りながら、九州へゴルフ旅行に出ていました。自然の力を甘く見た尊大なふるまいというほかはないでしょう。
 車体が水没する豪雨のなかで運行されていたバス、高潮の危険地域に建てられた公営住宅、遅きに失した避難勧告など、23号の災禍にも検証が必要でしょう。「小さな存在」の周囲を、謙虚に見つめ直すしかないのでは?野菜やリンゴ、ミカンは?また、大部分が水没した兵庫県豊岡市などではボランティアさんが手伝っています。早く復興を〜〜。

             2004.10.22 手帳より

『国際福祉機器展』
 昨日(14日)、国際福祉機器展・「東京ビッグサイト」にみきさん達と行きました。横浜駅集合でした。新橋駅から『ゆりかめ』に乗りました。国際福祉機器展で色んな機器などを見ましたがおとに必要なものは無かった。
 国際福祉機器展は介護者のためより、援助者のためが多いと思いました。おとの場合、片手でしています。エプロンで良いのがありましたが片手ではだめです。数社に言いました、結局片手の人にも考えるだけです。杖はもう少し軽いのは?てぬぐいは?これ以上は無理ですのみ〜〜。
 出来るだけ自分の事は自分と努力していますが?〜良い方法はないのかなぁ。車イスの人たちもいました。独りで着て、車で来た人や家族で来ている人などと話をしました。一生懸命頑張っている人は元気ですよ〜。午後3時過ぎ、みきさんと会って、おとは「帰ります」と言いました。みきさん達は終わるまでいるとの事です。東京ビッグサイトを出て、午後6時過ぎ、着きました。疲れました。

             2004.10.15 おと

『鶴の翼に』
 万葉集に、祈るような親心の歌があります。「旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子はぐくめ天の鶴群(たづむら)」。作者未詳、遣唐使のわが子を見送る母が詠んだといわれます。
 旅人の宿りの野辺に霜が降りたら、空をゆく鶴の群れよ、私の息子をその翼で守っておくれ。「彼」も肉親の祈りを背に旅立った一人であっただろう。
 遣唐使に随行した日本人留学生の墓誌が、中国で見つかった。中国名を「井真成」という。学問を修めたのち、玄宗皇帝に仕えた。717年、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や吉備真備(きびのまきび)とともに入唐した留学生らしいです。
 734年1月、急病のため36歳で死去しました。よほど優秀な人であったか、皇帝は死を惜しみ、異例の官位を追贈していました。日本に帰る船が出たのは、同じ年の秋であります。故郷に錦を飾る機会を目前にして、無念は察するに余りあります。
 境涯の似通う阿倍仲麻呂は、望郷の月の歌で知られています。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出(い)でし月かも」。古人は夜空に懸かる月を鏡にたとえたのでしょう。「月の鏡」は秋の季語にもなっています。
 鶴の翼にはぐくまれることなく逝った日本名の知れないその人も、幾夜となく、父母の面影や故郷の風景を天上の鏡に映しただろう。「遺体は異国の土となったが、魂は故郷に帰る」と、墓誌は記しています。月の美しい季節に届いた哀(かな)しい物語ですね。
 追伸  14日(木)、国際福祉機器展を見に行く予定です。

             2004.10.13 手帳より

『障害者福祉を一本化…厚労省が試案』
 厚生労働省は、身体、知的、精神障害者の公的福祉制度を大幅に見直し、共通の制度に統合する改革試案をまとめた。ケアマネジメント(専門職による給付管理)などを導入して、障害の種別ではなく、施設やサービスの機能に基づいて再編・一本化し、施設・サービスが相互に利用できるようにする。

 来年中に「障害福祉サービス法」(仮称)を制定し、早ければ2006年度から段階的に実施する。

 試案によると、まず、身体、知的障害者が対象となる「支援費制度」について、すでに介護保険で導入されているようなケアマネジメントを導入。同時に給付基準を厳格化し、一部で必要以上の給付が行われている現状に歯止めを掛ける。
 さらに、利用者の自己負担も低所得者に配慮しながら引き上げる。現行制度では応能負担だが、利用量に応じて負担を求める。一方、財政基盤を強化するため、在宅サービスの費用に不足が出た場合、国と都道府県が必ず補うよう義務づける。

 支援費制度に入っていない精神障害者の福祉制度も同様の見直しを行ったうえ、障害の種別が違うと利用できなかった施設やサービスを、相互に利用できるようにする。

 支援費制度については、開始初年度の昨年度から、在宅サービスだけで100億円単位で国の予算が不足し、このままでは制度の維持が難しいと判断した。同制度は介護保険との一部統合が検討されており、見直しはこれを視野に入れたものだが、統合の有無にかかわらず実施する。

 同省では「本来なら、施行時から実施すべきことで、設計ミスと言わざるを得ない。欠点は早めに改めたい」(障害保健福祉部)としている。

             2004.10.09 情報より

『丸の内オアゾ』
 小津安二郎監督の映画「早春」に、東京・丸の内にある丸ビルの窓から若い社員がふたり、東京駅を眺めて会話する場面がありました。
 「毎朝降りるサラリーマンは34万人、仙台市の人口と同じだって」「おれたちもその一人なわけだ、34万分の一か」。1956年(昭和31年)の作です。経済成長を動かす歯車の誇らしくもどこか味気ない胸の内を伝えています。
 おしゃれな店舗が立ち並ぶ現在の丸の内に、映画の面影はない。ホテルや商業施設が入る複合ビル群「丸の内オアゾ」も開業しました。オアゾとは「オアシス」を意味するエスペラント語というが、オアシスで「何10万分の1…」と嘆息する人はいません。
 先々を夢見て今を辛抱する高度成長の時代が終わり、低成長の乏しい果実で日々の生活をどう彩り豊かなものにしていくかに、働く人の関心は移りつつあります。殺風景な「歯車の街」の変容は、その投影でもあろう。
 独文学者の高橋義孝さんが駅を人の顔に例えたことがあります。新宿駅は「場末の、よくはやっているバーのマダム」、上野駅は「乾物屋のおやじさん」、東京駅は、「大きなホテルのフロント主任」の顔を思わせるといいました。
 丸の内界隈(かいわい)の華やぎを映してだろう。事務的で冷たい印象のあったフロント主任の表情が、心なしか柔らかみを増したようです。

             手帳より

 台風22号は
 非常に強い台風22号は8日夜、沖縄の東海上を北上、9日昼にも強い勢力を保ったまま紀伊半島から関東にかけての太平洋岸に上陸し、本州を縦断する見通しです。
 東日本に上陸した場合、過去10年間で最も強い台風です。気象庁は「広い範囲で大雨が予想され、関東南部では、近年にない強い暴風となる恐れがある」として厳重な警戒を呼びかけています。早く来て、台風一過へ。

             2004.10.09 おと 

  『釧路のサンマ』
 サンマの季節だ。道東(北海道道東)沖の漁は9月がピーク。中旬、釧路へ飛んだ。気温34度と残暑の厳しい大阪から2時間。着くと15度。秋の中にいた。
 サンマは春から夏に動物性プランクトンを求めて太平洋岸を北上し、千島沖合の北の海で成熟。8月下旬ごろ、産卵に向け親潮に乗って南下する。今年は海水温が高く、半月遅れで南下を始めた。
 小型漁船の漁が7月下旬から順次解禁され、大型漁船の漁が8月下旬に解禁された。その棒受網漁法が面白い。夜、右舷の集魚灯を点けてサンマを船の右側に集め、その間に左側の海中に棒に取り付けた網を張る。右舷の集魚灯を点けて網の中へ誘導、一網打尽にする。今年は豊漁で大ぶりなものが多い、資源保護のため、水揚げ後24時間の自主休漁を続けている。
 翌朝は小雨模様。午前7時、この日の第二陣、18隻の棒受網漁船が釧路港に次々と戻ってきた。三陸など外来船が多い。歯舞沖へ出ていた宮城・鮎川が水揚げした。生鮮用のタンク6杯、4.2?と加工用トラック1台、8?。
 32、3?、170〜180?の大型。背の黒紫色が鮮やか。腹は銀白色に輝く。凛として正に秋刀魚。「口先が黄色いでしょ。背中も盛り上がっています。脂が乗っている証拠。30?近くあります。体に脂を乗せた産卵します。10月になるとふっくらしてたのが細くなります。」と話します。
 近くの「鮭番屋」で獲れたてを焼いてもらった。釧路は炉端焼きの発祥の地との事です。ここも新鮮な魚介類を炭火で焼いて食べた。粗塩を振った塩焼きとそのままの素焼き。
 網の上でプシュッ、プシュッとうまそうな音を立てています。脂がジュフッとしみ出して滴り落ち、炎が上がっています。皿に移して箸を入れました。皮はパリッと焼けて香ばしく、身はふっくらと柔らかい。はらわたもまた苦みがあって格別です。
 一度、食べに行きたいですね。      情報より

『258安打、イチローが新記録』
米大リーグ、マリナーズのイチロー外野手は1日、シアトルでのレンジャーズ戦に「1番・右翼」で先発出場。一回の第一打席に左前打を放ち、1920年にジョージ・シスラー(ブラウンズ)が作った年間最多安打記録(257本)に並び、三回の第二打席はこの日3本目の安打となる中前打を放ち、年間259安打の新記録を達成しました。

この試合を含めて残り3試合、イチローはさらなる記録更新を目指すだろう。イチローは2001年に242本(10位)を記録。歴代上位10位のうち、イチローの2つの記録を除き、いずれも1930年以前の記録となっています。

             2004.10.03 イチロー 新記録へ

『閉会式』
障害者スポーツの祭典、アテネ・パラリンピックは28日、当地郊外の五輪スタジアムで閉会式を行い、史上最多の136カ国・地域から3969選手が参加し12日間にわたった熱戦に幕を下ろしました。金7、銅1を手にした競泳の成田真由美(神奈川)が今大会の全出場選手中、最多メダル獲得選手となるなど、日本はこれまでで最多の計52個(金17、銀15、銅20)のメダルを獲得した。次回は08年に北京で開かれます。  閉会式は、パラリンピック観戦に向かっていた地元高校生7人が死亡した27日の交通事故を受け、1分間の黙とうから始まった。哀悼の意を表するため大会史上初めて式典が簡略化され、予定より2時間早い約1時間で終了しました。
 国際パラリンピック委員会(IPC)のフィリップ・クレーブン会長は「この大会を亡くなった若い彼らとその家族にささげる」とあいさつし、選手には「アテネの精神を持ち帰り、世界中の若いアスリートを感動させてほしい」と呼びかけました。
◇北京に向け早くも決意
 28日夜に行われたアテネ・パラリンピック閉会式。地元高校生7人の死亡事故を受け、アトラクションは大幅に簡素化され、従来の華やかさは影を潜めた。日本選手団は哀悼の意を示すため、喪章をつけて式に臨んだ。
 式を終えた選手たちの思いはさまざまだったでしょう。簡素化された式典に理解を示しつつ残念がる表情もあれば、早くも次回の08年北京大会を見据えて決意を語る声もありました。
 陸上円盤投げで銀メダルだった56歳の大井利江(岩手)は「帰ってから練習をして、北京で金を目指して頑張りたい。次は還暦となるので、『赤いもの』をつけて投げたい」と意気込んでいた。陸上3冠の高田稔浩(福井)は「感動を味わえるなら、また味わいたいという希望が出てきた」と話しつつ「まだどうするか分からない」と39歳の心は揺れているようだった。
 車いすテニスの斎田悟司(千葉)も「正式にアテネが終わったということで、今までのことを思い出しながら式に出ていた。(北京は)家に帰って休んでから考えたい」と感慨深げに話しました。
 五輪発祥の地で燃えさかった聖火が消え、同時に、4年後を目指した新たな1歩が静かに踏み出されました。北京へ。

             2004.09.30 アテネパラリンク終了

『成田真由美 7冠達成後の談話』
 アテネ・パラリンピック第11日、27日の競泳最終日に行われた女子50m自由形(運動機能障害3)決勝、成田真由美選手さんが前回シドニー大会で出した自己の記録を100分の1秒縮める39秒22の世界新記録で、今大会7個目の金メダルを獲得した。成田さんはこの種目の後、女子4×50mメドレーリレー(運動機能障害)に出場し、銅メダルを獲得。8冠はならなかったが、8種目で金7、銅1、計8個のメダルに輝いた。以下は、7個目の金メダルを獲得した直後の成田選手の談話です。

■成田真由美「あきらめないで泳ぎ続けてよかった」

――7個目のメダル獲得です

 メダルの数にはこだわっていなかったのですが、今回、本当に調子がよかったと思います。泳ぐたびに世界新を更新できたので、あきらめないで泳ぎ続けてよかったと思います。

――あきらめずにというのは

 この4年間振り返って、いろいろな出来事があった中で、もう一度アテネを目指したいと思い始めて、ここまで練習をこなしてきました。辞めてしまうことは簡単でしたが、またアテネに向けて泳ぎ続けて、その結果、こうして世界新を出すことができたので、本当にたくさんの人たちの応援や支えがあって、ここまでくることができたのかなと思います。

――39秒22という記録について

 正直なところもうちょっと(いいタイムを)狙っていたのですが、100分の1でも更新できたので、泳ぎ続けてよかったなと思います。

――50m自由形という種目は

 一番好きな種目だったのですが、練習を重ねていくうちに(タイムが)伸びる種目が100と200ばかりで、瞬発系の50の記録が伸びなかったので、(自身がシドニーで出した)39秒23を塗り替えることだけを思って泳ぎました。今回の泳ぎこみで持久力がついてきたので、100と200は伸びがよかったのだと思います。

――34歳になっても、持久力がついてきている

 そうですね。明らかにそれは言えると思います。

――技術面で何か変化は

 どうでしょうか。コーチを100%信頼していたので、例えばコーチに1%でも不満が出ればこの記録はないと思います。コーチを信頼して、メニューをこなし続けた結果だと思います。

――表彰式後に日の丸と成田さんと(亡くなったライバルの)カイさんの写真がプリントされている手作りの旗を振っていたが

 表彰台ではいけないのですが、今日はこの旗を持つと決めていて、メダルセレモニーが終わったら、監督にこの旗を持って降りてきてと頼んでいました。

               2004.09.28 成田選手より

『真夏日は?』
 「真夏日」東京67日・大阪88日でタイ、明日も?
 東京都心で19日午前11時5分、気温30度を記録し、気象庁が東京・大手町で観測を始めた1923年以降、30度以上の「真夏日」が、過去最高だった2000年の67日に並んだ。
 大阪でも同10時15分ごろ30.5度となり、1999年の88日のタイ記録となった。
 気象庁によると、日本海にある寒冷前線に南風が入り込んだ影響で、あすも真夏日が予想される。
 東京は今年、5月11日に初めて30度を超え、7月6日以降は40日の最長連続真夏日を記録。大阪では5月30日に初の真夏日となった。
 明日も真夏日みたいです。 暑い日はもう終わらないかなぁ。

               2004.09.19 情報より

☆アテネ・パラリンピック・成田真由美選手☆
 17日開幕のアテネ・パラリンピックに、3大会連続で出場する水泳の成田真由美選手。最大のライバルだったカイ・エスペンハイン選手(ドイツ)が2年前に亡くなり、15日が命日だった。「寂しいけれどやるしかない。私は戦いに来た」。 前回のシドニー大会で金メダル6個を獲得した日本代表スイマーは、好敵手のいない悲しみを乗り越え、世界最高の舞台に向かう。
 国内で敵なしだったアトランタ大会(1996年)前、同じ障害のクラスの100メートルで、自分より6秒も速い選手がいると知った。それがカイ選手だった。
 「負けたくない」と猛練習した。足にバケツをくくって泳ぎ込んだ。プールサイドで倒れることもあったが、「ここで死ねるなら本望です」と言ってコーチを驚かせた。
 2人の初対決となったアトランタで2勝4敗。続くシドニーでは6レースで完勝した。最終レース後、カイ選手にコースロープ越しに抱えられ、「グレートタイム(素晴らしい記録)」と祝福された。泣いた。
 悲報は2002年9月、インターネットで知った。シドニーで、おなかに栓をして泳いでいた姿を思い出した。ばい菌が入る危険を冒してまで挑戦する執念を見た。「カイ。まだ泳ぎたかったんじゃないの」
 アテネに選手団が次々と入ってきた14日、ドイツチームと会った。思わず、カイ選手の姿を探してしまった。目が合った女性ドクターに話しかけようとしたが、言葉にならなかった。
 成田選手は13歳のとき、脊髄(せきずい)炎で両足の自由を失い、2年前には持病の心臓病も悪化。薬の副作用で体重が20キロ増えた。4か月入院した。骨折もあった。結婚し、仕事と主婦業をこなしながら、世界の舞台に戻ってきた。
 「金メダルは2個取る。1つは私の分。もう1つはあなたの分だよ」。カイ選手にそう誓い、公言もしてきた。
 いまも手紙をやり取りするカイ選手の母親からは、大会直前に"抗議"があった。成田選手の公約を伝え聞いて、「あなたはもっとメダルを取れるはず」。その言葉に恥ずかしくない結果を出したいと思う。
 17日夜(日本時間18日未明)の開会式。「あの場所に立つと、勝負はどうでもいいって気持ちと、この中でこそ勝ちたいっていう不思議な気持ちになる」
 表彰台でドイツの旗を振り、カイ選手とその母親の思いに応えたい。戦いが終わればドイツに飛び、墓前にメダルをささげようと思っている。

               2004.09.18 情報より

『プロ野球を考えて』
 大リーグ史に残る名選手、ジョー・ディマジオは語ったことがあります。「球場に来てくれたファンのなかには、ディマジオを見るのが最初で最後の人が必ずいます。私はそういう人たちのためにプレーしている」と言っています。
 届いた一通の手紙を読みながら、その言葉を思い浮かべた。東京・向島の小学4年生K君、1年生T君の兄弟は東京ドームで今夜、巨人―ヤクルト戦を見る予定だと言われました。
 2人とも巨人ファンでT君は江藤選手がお気に入りらしい。「しあいをやめるとなかなかけんをとれないのでとてもざんねんです。やめないでください」。背番号33をつけた選手の絵が添えてあります。
 お母さんによれば、ふたりは年に一度あるかないかの球場観戦を心待ちにし、ストライキのニュースが流れた朝は、目を赤く泣きはらして登校したと言います。地方在住のファンには生涯に一度、「最初で最後」の来場者もいるに違いないでしょう。
 選手会と経営側との交渉で、この土日のストがひとまず避けられたことに胸をなでおろす。そもそもは両者の"接触不良"に根ざした確執であるのでしょう。一期一会の来場者を思いやるディマジオの心を双方が失わない限り、接触を通じて着地点は見つかるだろう・  K君、T君――奇跡の逆転優勝へ、今夜は存分に応援してください。古田選手にも「お疲れさま」の一言を。オーナーしっかりして下さい。

                     手帳より

☆☆☆☆☆☆
 昨日は開幕するアテネ・パラリンピックの日本選手団の結団式が開かれ、出発を前に選手宣誓をする永尾嘉章選手団主将ら。その後壮行会が開かれ、小泉首相やアテネ五輪柔道の金メダリストの鈴木桂治選手も訪れ、選手らを激励した。
 彩の国まごころ国体(第59回国民体育大会)の夏季大会の開会式が、埼玉県川口市で行われ、14日までの5日間にわたる熱戦の幕を開けた。式典前には、県内の高校生によるフラッグ演技などが披露され、彩りを添えた。

               2004.09.11 スポーツ

『浅間山は』
   「浅間山は煙と共に生れ、今も煙によって名を博している」――作家の深田久弥は、名著の誉れ高い「日本百名山」(新潮社)に書いています。群馬・長野の県境にそびえる浅間山は火山のなかで、熊本の阿蘇山と並ぶ横綱です。
 民謡の信濃追分に「浅間山さん なぜ焼けしゃんす すそに三宿(さんじゅく)もちながら」とあります。追分、軽井沢、沓掛(くつかけ)と、繁華な宿場を山すそにもつ豪儀な身で、ねたましげに焼くことはあるまいに、とあります。
 街道に近いだけに大噴火となれば被害も大きい。「浅間大焼け」として記録に残る1783年(天明3年)には火砕流で千人を超す死者が出ました。奇岩が累々と重なる麓(ふもと)の名所「鬼押し出し」は惨事の名残であります。
 おとといの夜、浅間山が大音響とともに噴火しました。中腹まで噴石が飛ぶ規模の噴火は21年ぶりのことで、群馬県嬬恋村では約50人が一時、公民館に避難しました。
 気象庁は、「今後も同規模の噴火が前兆なしに起こることも考えられる」といわれます。収穫を目前に控えた特産のキャベツは火山灰に覆われた。麓の家々にはしばらく不安な夜がつづきました。
 「平常は薄い白雲かと見紛(みまが)うようなおとなしい噴き方だが、時々堪忍袋の緒を切って大あばれをする」。山の神が「忍」の一字、袋の緒を固く、手早く結び直してくれるのを祈るばかりですね。早く噴火が止まるのをお祈りするだけです。
               2004.09.03 手帳より

『防災の日』
  北海道帯広市、福行きの切符で人気になった旧「幸福駅」のあたりはその昔、「幸震(さちない)」と呼ばれていました。のちに福井県からの移住者が増えて「震」から「福」に改められたといわれます。
 幸震はアイヌ語の「サツナイ=乾いた川」に字をあてたもので、「ナイ」は地震を意味する古語です。幸が震えてはおちおち眠ってもいられず、地元の人は福が来てほっとしたでしょう。
 人々の幸福な生活を根底から震わせ、ときに多数の人命を奪い去る自然災害は、地震ばかりとは限らない。死者・行方不明者が10人を超えるなど、大型台風16号の傷跡が生々しく残るなかで迎えた「防災の日」です。
 7月に新潟県三条市を襲った集中豪雨では、市が避難勧告を出したものの、役所内が混乱していたために肝心の被災地区の住民に伝わらず、9人が死亡しました。
内閣府の調査では、4人に1人が災害時の避難場所を「知らない」と答えています。6千人以上の人命が失われた阪神大震災から来年1月で10年になるが、惨事の教訓は生かしきれていない。
 鎌倉時代の歌人鴨長明は「方丈記」のなかで、30年ほど前の地震を人々が忘れつつあることを嘆いた。「月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言い出(い)づる人だになし」と。「福」が「震」に変わらないよう、思い起こし、語り、考えるしかないのでは。 今日は防災の日です、皆さんも考えましょう。

               20004.09.01 手帳より

『祭典が閉幕』
108年ぶりに近代五輪発祥の地で行われた今大会には、史上最多の202の国と地域から、選手・役員約1万6000人が参加し、28競技301種目で熱戦が繰り広げられました。4年後の次回2008年大会は、1988年ソウル大会以来20年ぶりにアジアに戻り、中国・北京で開催されます。
日本選手の躍進が目立った大会でした。伝統の柔道や競泳、体操のほか、新種目の女子レスリングでもメダルを量産しました。日本のメダル数は金16、銀9、銅12の計37個で、史上最多となりました。また、金メダル16個は1964年東京大会に並ぶ史上最多でした。
イラク戦争後初の祭典は、テロを警戒して厳重な警備の中で行われたが、大きな混乱もなく終了しました。ただ、最終種目の男子マラソンでは、一時独走状態だったバンデルレイ・デリマ選手(35)(ブラジル)が、35キロ過ぎで、沿道から飛び出してきた57歳の男性に競技を妨害され、3位に終わるハプニングが起きました。
また、陸上男子ハンマー投げで優勝したアドリアン・アヌシュ選手(31)(ハンガリー)が薬物使用(ドーピング)検査を拒否して金メダルをはく奪され、2位の室伏広治選手(29)(ミズノ)が繰り上がりで金メダルを獲得。ドーピング違反件数は29日時点で史上最多の24件に上り、国際オリンピック委員会(IOC)にとって今後も、薬物違反が課題として残った。
閉会式では、五輪組織委員会のアンゲロプロス会長が「最後の金メダルを受け取るのはギリシャの人々」と、開催国の国民が大会を成功に導いたことを強調。五輪旗が、北京の王岐山市長に手渡され、17日間にわたって平和の祭典を見守り続けた聖火が消えました。

               2004.08.30 アテネ五輪 終了

『 雨』
 5歳の女の子が書いた短い詩を読み、感心して手帳に書き留めたことがあります。 題を「かさ」という。「あめのおとが/よくきこえる きかいです」。
 その"機械"を関東ではあまり手にすることもなく梅雨が終わり、夏の盛りも過ぎた。東北・北陸から西日本にかけての地域では、たび重なる集中豪雨によって多数の死者が出ました。 住む家を失った人も多く、雨の音に聴き入るどころではない。
 「私がいないと私を求め、私がいると私の前から逃げる…」。 東欧に古くから伝わるなぞなぞの答えは「雨」であります。 列島を炎暑と豪雨に塗り分けたこの夏ほど、求め、かつ逃げたい二つの心が身に寄り添った年もない。
 「五風十雨」という。 五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降るのが、農作物の生育には良いという古人の教えで、天下太平の世をも意味しています。冷夏の田園風景を指す「みどりの冬」という言葉もささやかれた昨年、農家は長雨に泣いた。
 アテネから毎日のように届くメダル獲得の知らせに気を取られているうち、8月も残すところあとわずかです。 晩夏から新涼にかけての季節は、大型台風の襲来が多い時期でもあり、引きつづき十分な用心が怠れない。
 雨の「おと」に聴き入ることのできる、五風十雨の秋であってほしい。

               2004.08.27 手帳より

『 言葉には』

 合うのか、五輪での活躍ぶりには目を見張るばかりだ。 しかも、メダリストや共に歩んで来た人たちの言葉には、人生万般にも通じる含蓄に富んだものが多いい゛す。
 「大切なのは基本をしっかり作ること。 難しい技を小さな時から習得する必要はない」。体操男子団体の米田功、冨田洋之、鹿島丈博の三選手をジュニア時代に教えた城間晃のこれが育成方針だったという。
 五輪三連覇の偉業を遂げた柔道の野村忠宏選手も、父親の基次さんから「小細工を覚える必要はない。正攻法できちんと組め」と言われて育った。 確かな土台づくりの時間があったからこそ、世界の頂点に立てたのだろう。
 やはり柔道でオール一本勝ちだった谷本歩実さんの「勝っても負けても一本。 思い切った柔道をしないと自分である意味がない」もよかった。 この気迫に相手も参ったに違いない。 心技体の充実の証しだ。
 競泳自由形で女子初の金メダルに輝いた柴田亜衣さんは、コーチの教え通り、「あせらず あわてず あきらめず」と言い聞かせながら泳いだという。 何と素晴らしいアドバイスだったことか。
 「銅から20年かって銀。 あと20年かけて金だね」とアーチェリーの山本博選手。本気のほどはともかく、41歳になる人の、この心意気にも感心したでしょう。
 障害者の私にも感じする言葉がありました。 一日一日大切に生きるために努力。

               2004.08.22 手帳より

大地の力か!!
駒大苫小牧V、北海道勢初の甲子園制覇〜〜おめでとう


☆大分県に障害者の「モデル工場」 仕事と給与 健常者と同じ☆

 障害者が働く「モデル工場」に――。そんな理想を掲げる企業が、大分県日出(ひじ)町にあります。従業員の60%が障害者という職場には、障害を克服して快適に働くための工夫が凝らされています。

証言  障害者雇用率が全国トップの大分県。その原動力は、別府市の医師が1965年に設立しました「太陽の家」です。これまでに、オムロン、ソニー、ホンダなどと県内外に8つの子会社を設立。働く障害者は計約330人に上る。「太陽の家」の工藤事業部長は「授産施設などに企業が仕事を発注した場合でも、障害者雇用率が上がるような法的措置があれば、障害者の労働力をもっと活用できる」と提案します。

 作業しやすい環境整え 1人で製品完成
 たくさんの障害者が働く「ソニー・太陽」の職場(大分県日出町で)
 マイクロホンやヘッドホンなどのオーディオ機器を製造する「ソニー・太陽」。ソニーが、大分県別府市の社会福祉法人「太陽の家」とともに1978年に設立しました。

 手足や聴覚などに障害を持つ約120人が、約80人の健常者とともに社員として働いています。30歳モデルで月22万円という給与水準や、労働時間は健常者と変わらない。

 工場の天井に、なぜか「正木商店」「樋口商店」などと書かれた看板が下がっています。その下で、同じ名前の車いすや義足の障害者が、黙々とハンダ付けや包装作業に励んでいます。

 「組み立てから包装まで、1人でこなします。だから彼らは個人商店主なんです」。人事総務部の鶴島・統括部長が教えてくれました。

 ◆台などで工夫
 4年前、流れ作業による「ベルトコンベヤー方式」から、1人、または少人数グループで製品を完成させる「セル生産方式」に切り替えました。在庫を残さず、必要な量だけを製造できる利点があるが、1人でさまざまな作業をしなければならない。1人ひとりの障害に合わせて、作業環境を工夫する必要があった。

 両手が義手の奈良輪さんが、拡大鏡をのぞき、マイクロホンに使う小さな部品を検査していた。奈良輪さんのために開発されたのが、「エアスライダー」と呼ばれる円形の台(直径20センチ)。ホーバークラフトのように底部から空気を放出、作業デスクから浮くので、力のない奈良輪さんでも、見やすい位置に簡単に動かせる。

 立てない人のためには、いすに自動昇降機を取り付け、聴覚障害者には、ブザーの代わりにランプで、工程の進み具合が分かるようにした。

 ◆経常黒字
 ソニー製のマイクロホンの90%は、同社が製造しています。「ビジネス面できちんと利益を上げることを親会社(ソニー)から求められている」と鶴島部長。実際、昨年度は約2000万円の経常黒字だった。

 さらなる生産性向上のためにも、全社員が独力で製品を作ることを目標にしています。「それが実現すれば、他企業にもこの方式が広がり、障害者の雇用の場が増える」と考えています。

 車いすで作業する「樋口商店」の樋口さんは、1日20―30個のピンマイクを完成させる。「まだ車いすでは入れない場所もあって、手伝ってもらうこともある。全部1人でできたら、もっとやりがいがあるでしょうね」と目を輝かせた。

 雇用率 全国平均は横ばい
 従業員56人以上の企業での障害者雇用率は2003年、全国平均で1・48%。大分県は2・23%で、17年連続の全国トップだ。

 全国平均は10年前と比べ0・04ポイントしか上がっておらず、障害者雇用促進法の定める法定雇用率1・8%を大きく下回っている。法定雇用率に達しない企業には、本来雇うべき障害者1人あたり月5万円の納付金が課せられる。

 国は障害者の就労機会を増やすため、これまで身体・知的障害者に限られていた雇用率の算定対象に、精神障害者を加える方針を決めた。また、在宅で就業する障害者に仕事を発注した場合、納付金を減額することなどを検討している。


                  2004.08.19 情報より

『横浜へ』

13日(金)、みきさんと横浜駅(午前10時)で会いました。元町・伊勢佐木に行くため、JR石川町駅に着きました。元町・伊勢佐木の店などを見ながら歩いて行きました。暑いし、疲れたので、喫茶店に入りました。喫茶店を出て、中華街に向かって行きました。まだ、早いからか、または、お盆休みなのか人もお店も少なかったよ〜。中華街に着いて、関帝廟を見に行きました。小さいなぁ。食事のため、中華の店に行きましたがあまり、美味くないよ(みきさんも〜)。

四季の味覚
☆冬の味覚
鶏・鴨・豚肉・ソーセージを秘伝の調味料や香辛料などで下味をつけ炉で焼いた物を「シュウラ」といいます。また焼かずに冷たい風にさらし、半乾きにしてから蒸すのが「ラッメイ」。師走から正月にかけての味覚です。

☆春の味覚
豚肉・アヒルの塩玉子・干し海老・椎茸など大きめの具がたっぷり入った中国のちまき。日本と同じく5月5日に食べる習慣があり、古くは供物として用いたという故事もあります。チンゲン菜などの野菜も豊富に出回り、春の食卓に彩りを添えます。

☆夏の味覚
空心菜、豆苗、花韮などの中国野菜が鮮やかな夏。中でも冬瓜にはからだを冷やす作用があるといわれ、暑い季節には欠かせない食材となっています。同じ効果がカメゼリーや仙草ゼリーにもあり、涼やかなデザートとして人気を集めています。

☆秋の味覚
中華菓子で季節のものといえば「中秋月餅」が有名。秋の豊富な味覚(栗・蓮の実・アヒルの塩玉子・木の実)を入れ、十数種類の月餅を作って先祖に礼をつくしたり、お世話になった先輩や古い友人に贈る盆・正月にあたる意味を持ち、離れている家族が集まる大切な季節です。 また旬の時期だけに登場する「上海ガニ」も秋ならでは。生きたまま空輸されることから、別名飛行機ガニとも呼ばれています。メスは10月、オスは11月が食べ頃。 中華街を出て、JR石川町駅に着きました。みきさんが「何処に行こうかなぁ」と言われたので、「何処でも、タクシーに乗っても」など言いました。そして、歩いて行ける山手イタリア山庭園に行くことになりました。200?ぐらいですが登り上げでした、登るのに疲れました。 山手イタリア山庭園は「外交官の家」でした。平成7年より中区山手町の山手イタリア山庭園内に移築復元工事を行っている「外交官の家」(旧内田家住宅)。 部屋や暖炉などがあり、庭園も綺麗でした。 見に来る人もかなりいました。山手イタリア山庭園を出て、JR石川町駅に着きましが行ったときは「遠く思ったのに、着いたら、近いなぁ」と思いました。午後3時頃、JR石川町駅で、みきさんと別れて、横浜駅、相模鉄道を乗って海老名駅、そして、小田急を乗って家に着きました。 みきさんには大変ありがとうございます。

  オリンピックがはじまりました。 ニッポン ガンバレ〜。

               2004.08.14 おと

『てこの原理で上り下り楽々 』

 車いすがあっても、段差を怖がって使いこなせないことがあります。しかし、車いすは意外に段差には強いのです。介護者が操作のこつを覚えれば、室内の移動はもちろん、外出も可能になります。レストランや旅行に連れて行くことができれば、元気だったころの生活が戻ってきます。
 「車いすは、お年寄りが恐怖を感じないようにゆっくりと操作してください」。1番のポイントになる、段差の乗り越え方でか。
 こつは、「ティッピングバー」を使いこなすこと。車いすから介護者の足もとに突き出た棒のような部分です。このバーを踏むと、てこの原理で前輪が浮き、段差の上り下りが簡単になります。「利き足を使って、前に押し出すように踏みます。ちょうど、車のブレーキを押すような感覚です」と小森さん。
 小さな段差の場合は、ティッピングバーを踏んで、段差の上に前輪を乗せたら、そのまま押していけば十分です。
 段差を下がる場合は、段差の近くまで車いすを近づけたら、車いすを反転させ、後ろ向きの状態で降ります。動きは別掲のイラストの逆になります。  坂道を下りる時も、後ろ向きで下ります。前向きで下りると、前に倒れそうで、お年寄りが恐怖を感じるからです。屋外では安全ベルトをしましょう。
◇でこぼこ道では、お年寄りに振動が伝わらないように、前輪を浮かせて、後輪のみで進みます。ちょうど、イラストの3番の状態で進むわけです。
 「乗っている人に声をかけながら操作してください」と小森さん。何もいわず、いきなり前輪を上げると、お年寄りはびっくりしてしまいます。
 また、車いすを乗り降りする際には、ブレーキをかけて、フットレスト(足置き)をはね上げた状態にしておくことを忘れずに。フットレストにひっかかって転倒する事故が少なくないのです。
 ブレーキのかけ方は機種によって様々です。車いすを借りたら、介護者がよく確認しましょう。タイヤの空気が抜けていると、操作しにくいので、その点も注意してください。
◇一般に使われている折りたたみ式車いすは、スリングシートといわれる1枚布の座面になっています。自分で座ってみるとわかりますが、スリングシートに長時間座っているのは苦しいものです。
 「折りたたみ式の車いすは短時間、移動のために乗るものです。居間や食堂では、いすに移りましょう」と、車いすに詳しい東京都立保健科学大講師の木之瀬隆さんは言います。お年寄りを長時間、折りたたみ式の車いすに座らせておくのはやめましょう。
 お年寄りの場合、車いすの座面の幅や奥行きが体に合わないことがあります。体がずれてしまってななめ座りになったり、体が曲がったりしています。
 利用者の体の寸法に合わせて調整できる「モジュラー車いす」を、介護保険でレンタル利用しましょう。レンタル価格は、標準型車いすと大して変わりません。
 モジュラー車いすは、移乗の際にひっかからないように足置きやひじ置きを取り外すことなどができるので、その点でも便利です。
 ◆持ち上げない
 段差を越える時、車いすを持ち上げるわけではありません。通常の車いすなら、十数センチぐらいの段差なら、車いすを押していけば後輪が回って乗り越えることができます。




                2004.08.12 情報より
『瑞穂(みずほ)の国』

魚を食べるとき、ご飯を一緒に口に含んではいけない。 大正生まれの国文学者、 故池田弥三郎さんは子供のころ、そうしつけられたと随筆に書いています。

魚に小骨があればご飯も一緒に吐き出すことになる。 もったいない、と。 「ごは ん茶碗(ぢゃわん)には、たべ終えたらお茶を入れ、内側についている粒を洗い落と し、お茶と一緒にのみ下すようにいわれた」ともいう(日本経済新聞社「食前食 後」)◆「一粒百行(いちりゅうひゃくぎょう)」という熟語があります。 百の作 業を経て、ようやくひと粒がつくられる。 日本人の主食であるおコメの大切さ、農 作業の並々ならぬ苦労を教えた言葉だが、池田家の食事作法ともども、飽食の現代に 語られることは稀(まれ)だろう。

今年は国連の「国際コメ年」にあたります。 コメ作りから棚田の景観、食生活や食 文化などをテーマに、各地でさまざまな催しが予定されています。

地球上には栄養不足に苦しむ人が八億人もいるといわれます。 栄養価と収量にすぐ れたコメをどう生かすか、“瑞穂(みずほ)の国”の知恵が求められようとしていま す。 「一粒百行」を思い起こす、いい機会でもあるでしょう。

稲の青々と伸びた一面の田に風が吹き渡ると、さながら緑の海が波立ったように美し い。「一点の偽りもなく青田あり」(山口誓子)。 夏休み、車窓に映る緑の海に、 日々の生活で疲れた目を休ませている旅人もいるだろう。 良き “瑞穂(みずほ) の国”を〜。

             2004.07.30 手帳より
『いざ』
 

「風立ちぬ、いざ生きめやも」。 堀辰雄の小説「風立ちぬ」で、主人公がつぶや く。 フランスの詩人バレリーの「風が起きた。 生きねばならない」という意味の 原詩を文語調に翻訳しています。

国語学者の大野晋さんによれば、これは“誤訳”であるらしい。 「生きめやも」だ と「生きようか、いや断じて生きない、死のう」の意味になるという。

文法に弱い身は、「そういうものかしら」とうなずくよりないが、流麗な堀訳は忘れ がたい。 感動詞「いざ」に導かれ、血潮の潮位が増していく読後感は訳し手の手柄 だろう。

結核を病み、長い療養生活を過ごした堀は、「美しい村」「菜穂子」などの代表作を 残し、1953年(昭和28年)、病魔と連れ添った48年の生涯を終えました。  今年は生誕百年にあたります。 終焉(しゅうえん)の地、長野県軽井沢町の自宅は いま、記念館になっています。

先日訪ねた折、深い親交を結んだ国文学者、折口信夫の寄せた弔歌を見ました。  「菜穂子の後 なほ大作のありけりと そらごとをだに我に聞かせよ」。 うそでも いいから――切ない呼びかけは、円熟の季節を待つことなく逝った作家その人の無念 を語って余りある。

「いざ生きめやも」…。 その言葉が文法を超えて輝きつづけるのは、人生の重い結 晶だからだろう。

            2004.07.29 手帳より
『アテネ・五輪』

 1896年に第一回近代オリンピックがアテネで開かれて以来、108年ぶりにオリンピックが「ふるさと」に戻りました。 第28回夏季オリンピックアテネ大会(五輪)の特徴は―――――。

☆五輪誕生地での開催☆
古代ギリシャのオリンピアでは、紀元前776年から紀元前393年まで、最高神のウスにささげる運動競技の祭典として4年に1度「古代オリンピック」が開かれていました。クーベルタン男爵(フランス)が提唱して1896年に始まった近代オリンピックの第1回開催地に選ばれたのも、ギリシャのアテネでした。  このときにメーン会場となったのが、楕円形が特徴のバナシナイコ競技です。108年後の今回も、男女マラソンのゴール地点となります。

☆史上最大規模☆
国際オリンピック委員会(IOC)から旧フセイン政権時代に資格停止処分を受けていたイラクが新しい国内オリンピック委員会()の発足で復帰しました。 アテネ五輪には、202の国と地域から1万人余りの選手が参加する見通しで、4年前のシドニー大会の199か国・地域の参加を上回り、史上最大規模になりそうです。

☆サッカーは8月11日にスタート☆
開会式は8月13日だが、男女のサッカーは、2日前の11日に1次リーグの試合が始まります。大会は8月29日まで、28競技、301種目で熱戦を展開します。

☆女子の五輪☆
女子種目の増加などにより、今大会に参加する女子選手数は44%に達する見込み。シドニー五輪では女子選手の割合が38%だったから、大幅増となりました。 日本選手団では、チーム球技の女子ソフトボール、女子バンケットボール、女子ホッケー、女子バレーボールが出場権を獲得したことにより、女子選手数が躍進しました。史上初めて、男子選手を上回る情勢となりました。

☆オリンピックでも競技☆
陸上競技のうち男女砲丸投げだけは、アテネ市内の五輪スタジアムではなく、オリンピアにある古代五輪跡地で行われます。 古代五輪と現在のオリンピックを結びつける票案として、オリンピアのスクラリキス市長が提案して、国際陸連、IOCに了承されました。

             2004.07.25 オリンピック(開会式8月13日)はもうすぐ
『熊野古道へ』

 今月1日、日本で12件となる新たな世界遺産が誕生しました。吉野・大峰・高野山の3つの霊場と、各々を結ぶ参詣道からなる「紀伊山地の霊場と参詣道 です。18日、NHKも見ていました。
 熊野三山の歴史には、皆さんも興味を持っていませんか。極楽浄を願う「熊野詣」には、修験者から、法皇、庶民まで実に大勢の人々が参詣したと聞いていますし、あの険しい山をも乗り越えさせる信仰心とは一体どんなものだったのだろうと思います。熊野古道で昔の参詣道はやはり非常に険しいところでしょう。

 霊場【吉野・大峰】 吉野山、金峰寺、大峰山寺などを含む地域。紀伊山地の最北部に位置し、修行道の中心的聖地として発展。10世紀中頃には日本第一の霊山として崇敬を集めるようになり、この「吉野・大峰」を規範として全国各地に山岳霊場が形成されていった。

 霊場【熊野三山と参詣道】 「熊野三山」とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社と2つの寺院を指す。この熊野三山への参詣道および吉野・大峰との間を結ぶ「大峯奥駈道」、高野山奥院への参詣道も、三大霊場とともに世界遺産に登録されている。

 霊場【高野山】 空海が唐からもたらした真言密教の山岳修行道「金剛峯寺」を中心に、二つの神社と高野山下の慈尊院を含めて霊場。金剛峯寺の伽藍は本堂と多宝塔を組み合わせた独特のもので、全国の真言宗寺院における伽藍の規範となっている。

              2004.07.21 情報より

『 有馬温泉 (兵庫)』

 日本書紀にも登場の〈古湯〉
 わが国で最も古い温泉として記録に残っているのは、道後温泉、白浜温泉と有馬温泉の3か所で、〈日本三古湯〉と言われています。。
 また江戸時代初期の儒学者・林羅山(1583〜1657)が、元和7年(1621)の旅行によって記された『西南行日録』に、有馬温泉、下呂温泉、草津温泉を「三名泉」とたたえたことにより、近年になってこの3温泉は横の連絡を取りあって〈日本三名泉〉の名称をうたい上げています。
 六甲山脈に抱かれた有馬温泉は、大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)発見の神話を秘めた古湯で、『日本書紀』によれば、舒(じょ)明(めい)天皇(629〜641)、孝徳天皇(645〜654)などが行幸されたと記されています。
 まわりを山に囲まれた盆地状の地形の中に温泉街が形成されています。湯街へ入って行くと、入り組んだ小道が坂道になっていて、新しくなった共同浴場「金の湯」や、土産物店、喫茶店、レストランなどがひしめいています。木造の古い建物など、いかにも歴史を感じされます。石段を上がると湯泉神社、御所坊とか角の坊、奥の坊など、「坊」の付く宿が並びます。
 温泉寺左手のねがい坂をたどると極楽寺、その脇に「太閤の湯殿館」があります。平成7年の大震災で壊れた極楽寺庫裡(くり)下から、太閤秀吉が造らせたと伝える「湯山御殿」の一部と見られる湯船や庭園の遺構、瓦、茶器などが発見され、有馬の歴史と文化を紹介する目的で平成10年にオープンしました。その他、「金の湯」をはじめ、極楽寺上方の「銀の湯」などの共同浴場も整備され、新しいシンボル的存在になっています。一度、行きたいなあ。

              2004.07.18 情報 有馬温泉「銀の湯」は気楽な共同浴場

『何で孫を』

 清少納言「枕草子」は「ありがたき(めったにない)もの」として、「姑(しゅうとめ)に思はるる嫁の君」を挙げている。ひとつ屋根の下に住む者同士、何かとむずかしい間柄になりがちなのは、平安京の昔からそう変わっていないらしい。 言うはやすく、のたぐいではあるが、「親しき仲に垣を結え」と古人は教えてきた。 竹垣ならば相手の姿が透けて見える。ほどほどに風も通る。 それでいて一定の境界線はあり、具合がいいのだ、と?
 「垣」をいつしか「壁」に作り替え、壁の内側でひとり、妄想の虜(とりこ)になったのだろうか。孫が首を絞められて重傷を負い、同居する祖母が殺人未遂の疑いで逮捕された。「嫁を困らせようと思った」。そう供述しているという、 「殺すつもりはなかった」というが、孫は顔が腫れ上がるほど強くロープや両手で絞められている。家庭内の不満がどういう種類、程度のものであったにせよ、動機と行為の隔たりは理解しがたい。
 江戸の随筆集「耳袋」に、お年寄りの戒めを詠んだ狂歌がある。 「またしても同じ噂(うわさ)に孫じまん、達者自慢に若きしゃれ言」。くどい話、流行語の多用などと並べて孫自慢を挙げているのは、それほど孫がかわいい存在だからだろう。
 孫への凶行も戒めねばならないとは、殺伐とした世の中である。

              2004.07.15 手帳より

『北海道へ』(7月1日〜3日)

 1日、朝、5時前起きて、パンとジュースを食べ終わりました。6時前、家を出て、駅に行きました。相模大野駅のバスターミナルには6時45分頃着きました。丁度羽田空港行が来たので乗りました(予定は7時15分)。9時頃、羽田空港に着いて、南ウイングで降りました。帯広空港に行く便(90便)は10時45分出発、2時ぐらい只待っていました。10時頃、日空の女性地上職員に「身体障害者ですので」と言ったら「ハイ 早めに連れて行きます」と言われました。10時20分頃、日空の女性地上職員が早めにバスのところに連れてくれました。そして、飛行機に乗る時はスチューワーデスさんが手伝ってくれました(ナップサックなど)。20年ぶりの飛行機乗り。曇りのためか余り見えませんでした。埼玉か群馬を通って、宮城あたりを越えて、太平洋へ。北海道が見えると一番右に知床が見えました。スチューワーデスさんたちに何回も「何か問題ありませんか」と言われました。「大丈夫です」だけです。12時半頃、帯広空港に着いたら、小さんと大さんが待っていました。北海道は涼しいし、風も気持ちいいし、湿度も良いので爽やかですね。森や畑が綺麗ですね。でも、人も車もいない(少ない)のかなぁ。帯広の中心街に着いて小さんと大さんのお友達の「みすずラーメン」で食べました。「みすずラーメン」を出て、音更花時計に行きました。今日は風が少し強かった。音更花時計を出て、泊まる「かんぱの宿」に着きました(午後4時頃)。部屋に入って、小さんと大さんと明日の予定を決めました。そして、小さんと大さんは帰りました。午後5時過ぎ、お風呂に入って、6時にお食事をしました。ウェートレスさんに肉や貝、魚、カニなどをとれるように頼みました。美味しかったよ。ビールを一杯飲みました。疲れていたので早めに寝ました。

 2日は朝風呂をしました。朝食はバイキングでしたのでウェートレスさんに運ぶのをお願いしました。 午前9時半頃、小さん、大さんと出かけました。トイレ休憩で足寄の銀河駅に着きました。松山千春の生まれた街ですね。丁度11時、銀河駅の時計台から流れる綺麗な音楽とステキな鐘の音がありました。そして、ナンネトー湖に向かって行きました。大さんが好きと言うようにナンネトー湖は素晴らしいです。雄大な雄阿寒岳雌阿寒岳に見せました。ナンネトー湖を出かけると、親子の北キツネがいました。私達も車止めて写真とる、すぐそばにいっても逃げない、かわいい親子の北キツネでした。写真を撮って、阿寒湖に向かいました。午後1時頃、遊覧船の前まで車が入れました(午後1時半頃)。全ての食事店が休業していました。飲食店組合の組合葬かなぁ。待合室で食事しました。阿寒湖は誇る火山陥没地形と、原生の姿を留める豊かな自然。 魅力の数々に秘められた阿寒・マリモですね。遊覧船を乗って、マチュウルイ島に着いて、まりもの展示場に行きました。遊覧船に乗る人は少なかったよ。阿寒湖を出て、釧路市丹頂鶴自然公園に向かいました。午後4時半頃、着いて、丹頂鶴を見ていたら中国か韓国の人たちがいました(観光旅行かなぁ)。少し寒いので自然公園を出て、ホテルに向けて行きました。釧路の海を見ながら〜〜。午後7時頃、ホテルに着きました。 小、大さんと別れました。

  3日は午前8時、小さんが迎えに来ました。 ホテルの人たちと別れて、小さんの家に行って、お話ししました(大さんたちも)。 午前11時頃、小さんの家を出て、中札内中央公園に行きました。レストランで食べたり、美術館に見に入って、帯広空港へ一直戦。 午後2時頃、着いて、日空の女性地上職員に「身体障害者です、早めに乗れるようお願いします」と言いました。リハビリの先生が来るのを待ちました。午後3時頃、山田先生が来ました。11年ぶりでした。長久先生はお仕事のため、会えませんが山田先生のケータイで、お話ししました。小、大さん、山田先生とお別れして羽田空港へ。飛行機の時、スチューワーデスさんが「みんなと一緒に行くのは無理ですからみんなが出て、別のバスに乗せます」と言われました。飛行機が着いて、スチューワーデスがナップサックなど持ってくれて、バスに着く前、日空の女性地上職員に変わりました。そして、車イスに乗せて、横浜駅行きのバスまで連れて行ってくれました(午後6時頃)。大変ありがとうございました。横浜駅(午後6時半頃)に着いて、相模鉄道まで何回も聞きました。 午後8時頃、無事家に着きました。小、大さん、山田先生、スチューワーデス、日空の女性地上職員、「みすずラーメン」、「かんぱの宿」、、大変ありがとうございます。良い天気でしたし、また、会いに〜。

                  2004.07.08 おと

『二市合同運動』

NO

種目

対抗

出場者数

 

1

40m

 

18

 

2

でかパンリレー

◎負け

12

 

3

車椅子

 

40

来賓、希望者

4

フライングディスク

◎負け

10

 

パン食い競争

 

30

子供から→おと参加

むかで競争

 

20

ボランティアから

鈴わり

 

全員

 参加者全員

昼 休 

玉つきリレー

◎勝ち 

12

 

大玉転がしリレー

◎勝ち

20

 

1

スプーンレース

 

10

 

1

さかなつり競争

 

2

おと参加

13

ニ市対抗リレー

◎負け

 

1

玉入れ

 

全員

 参加者全員

朝は雨か降っていました。 午前9時過ぎ、出かける時は雨が止んでいました。 体育館に着いたら子供たちが多くいました。 清水、大矢、大木、沼田、大沼、武山、岩崎、長瀬、小島、小川、松尾、菅田さんたちと話しなどをしました。 あんまりしないのに疲れた おとでぇ〜す。 昼休みの時、車イスのダンスを教えてくれる人たちが来ました。 最後に先生(?)がしましたよ〜車イスの人(女の子)を使って、本当にダンスでしたよ〜。では、また

               2004.06.13 おとより

『囲碁殿堂』
 三国志でもおなじみの戦略家、諸葛亮の生涯を詠んだ土井晩翠の叙事詩「星落秋風五丈原」に、次の一節があります。「治乱興亡おもほへば世は一局の棊(き)なりけり」。「棊」とは、「将棋および囲碁」(日本国語大辞典)のことをいいます。治乱興亡、転変さだまりない戦国の世に見立てているところをみれば、陣地を取り合うゲームである囲碁をここでは指しているのだろう。
 「天下」を碁盤にして一局の碁を打った人を日本の歴史上に探すならば、徳川家康がいる。戦乱の世を平定して江戸に幕府を開いたのち、碁打ち衆を手厚く保護し、囲碁の隆盛に道を開いたのも、戦略と権謀に生きた家康その人の生涯と無縁ではあるまい。日本棋院がこの秋に設立する「囲碁殿堂」の記念すべき“殿堂入り”第一号に、家康をはじめとする四人が選ばれました。いずれも近世囲碁の発展と振興に多大な功績があった人々で、家康のほかは本因坊算砂(さんさ)(初世本因坊)ら歴史に残る本職の名人上手が顕彰された。
 昨年は江戸開府から四百年、幕府崩壊への導火線に火を点じることになった黒船の来航から数えて百五十年の節目にあたり、ゆかりの土地でさまざまな催しが営まれました。
  「治乱興亡おもほへば…」。囲碁を愛した江戸幕府の開祖も、栄華と衰亡の歩みを顧みては泉下で感慨に浸っていることだろう。

               2004.06.05 手帳より

『愛知万博は』
 徳川幕府の使節団がフランス人貴族と論争する場面が、吉村昭さんの小説「夜明けの雷鳴」にあります。 1867年にあったパリ万博でのことです。
 幕府は陶磁器や絵画、日本地図などを出展した。薩摩藩も出展し幕府と同格であることを主張した。使節団は薩摩の言い分を肯定する貴族に抗議したが認められなかった。明治維新につながる幕府の運命を予感させられた。
 万博は長く、国威発揚の場だった。 植民地の文物の展示を競ったこともある。 科学技術の発達を誇示する場でもあります。 1851年にロンドンであった最初の万博は産業革命後のイギリスの工業力を示す機会だった。
 電話や電化製品など、その時々の最先端の機器が万博で展示され普及していきました。万博は「世界を映し出す鏡」とされた。 時代を映す万博は、時代とともに、大きく転換しようとしていました。
 21世紀最初の万博が来年3月、愛知県で始まります。 テーマは「自然の叡智(えいち)」です。 環境万博の色彩が濃い。125か国が参加を表明し宇宙、生命、循環型社会などを考える様々な展示やイベントが行われるでしょう。 シベリアの凍土から発掘するマンモスの展示も予定されています。
 「夜明けの雷鳴」の主人公はパリ万博をきっかけに、近代医療の確立に邁進(まいしん)していく。 愛知万博も、21世紀の指針を示すものになって欲しいですね。

               2004.05.25 手帳より

『県スポーツ大会』
朝6時のラジオ(ラジオ日本)で、「神奈川身体障害者スポーツ大会は開催します」と聞きました。雨降ると天気予報では聞いたのね?タクシーで市役所に行きました。小島さん、安部さんたちがいました。そして、市役所の清水さん、社会福祉会館の清水さんが来て、バス出発。 藤沢の県立体育センターに着きました、早い方でした。選手団入場、開催宣言、国旗掲揚、あいさつ、祝辞などがありました。松沢知事も来ました。今日は雨がなくて良かったが、寒すぎです。
  おとの結果は障害急歩(100メートル・60メートルもあります)・7人中4位(75秒・優勝者は54秒)、ソフト投げ・7人中3位(17・45メートル優勝者は29メートルぐらいです)です。差がありますね。そのうち、写真を〜〜。
  車イスや電動イスはスラロームがあるし、視覚、聴覚者の競技がありますよ〜。一度、参加すると良いです。

      では、おと 2004.05.23

『蛍の季節』
 「遠く、遠く、川のつづく限り、幾筋とない線を引いて両側から入り乱れつつ点滅していた…」。谷崎潤一郎の「細雪」に、主人公の姉妹が岐阜を旅し、一夜を蛍狩りに興じる場面がありました。
  その夜、寝床のなかで、まぶたの裏に尾をひく光の残像を追いつつ、姉妹のひとりがつぶやく。「蛍狩と云うものは、お花見のような絵画的なものではなくて…絵にするよりは音楽にすべきものかも知れない」。
  写真家宮嶋康彦さんの近刊「蛍を見に行く」を時折ひらいて、ページのあいだから聞こえてくる幻想の調べを楽しんでいます。全国から選んだ蛍の名所を写真で紹介し、説明の文章が添えてあります。
  夜の底に砂金をちりばめた「岡山・姫蛍の森」の夜想曲があれば、炎が乱舞する「福岡・星野川」の狂想曲もあって、光の航跡が呼び起こす曲想は一様ではない。青い闇が美しい伴奏になっています。
  多くは六、7月にかけてが見ごろだが、「熊本・二鹿来川(にかきがわ)」のように例年通りなら今月下旬から、飛翔(ひしょう)の最盛期を迎えるところもあります。 一つ、またひとつと各地から蛍の便りが届くことだろう。
  妻を亡くした歌人の窪田空穂(うつぼ)に、ふたりの幼子と蛍を見る歌があります。「其子等(そのこら)に捕へられむと母が魂(たま)蛍と成りて夜を来たるらし」。見る人の、心の琴線をつま弾いて飛ぶ蛍もあるでしょう。

               2004.05.15 手帳より

『ありふれた雑草の美』
 ツバメは今年、住宅街に3月末に渡って来て、4月20日には巣作りにかかった。散歩道の雑木林のこずえを渡る縁の風を切って、ツバメが2羽、颯爽と飛ぶな―――と見る間に、1羽が林を離れ、ある学校の草の残るグランドに舞い降りた。もう1羽も続き、並んで土をついばみ始めました。ペアで、巣材採りです。
  大都会には“土の地面”がめったに残らず、ツバメも苦労なことでしょう。この鳥、垂直離陸が苦手で、人家の庭に下りるのを見たことがないのです。がっしり固められていないこのグランドは、前夜の雨で、しっそり温り、ツバメの夫婦は幸せそうですね。町に残るわずかな土の地面には、4月下旬から5月中旬までの見ものがあります。ありふれた雑草2種、スカンポ(スイバ)と、ツバナ(チガヤ)です。
  スカンポが約1?の花の穂を、辺り一面に立てるのを見ると、「上手のすかんぽ、ジャワ更紗」(原文)とはうまい表情だ、さすが詩人は違う、と思ってしまう。北原白秋がシー大正末に書いた童謡の冒頭です。
  雄株、雌株が別で、雄株の花は、鮮やかな紅、雌株のは黄、それに赤く縁取られた黄緑の若い実の色が加わります。一つ一つは、小さく目立たないが、見渡すと、地味な色彩の織り成す微妙な美しさがジャワ更紗そのものです。
  ツバキは、ススキに似た繊細な草で、50?足らずの茎の先に穂を立てます。穂は10?ほどです。 出始めは、濃い紫の雌しべのせいで黒っぽいが、熟すると綿毛になり、わずかな風にも揺れる真っ白な尻尾の群れに見えます。
  花がまた茎の中に納まって、銀色の筆の穂先のようなのを抜いてかむと、ほんのり甘いです。万葉集では、某女に「召し上がって、少しお太りなさいな」とツバキを贈られた大伴家持が「胸一杯で、食べても一向に太りませぬ」と返歌したと言われます。滋養豊富とされ、江戸川柳には「やせたくて、つばなも食たぬ花盛」(原文)とあり、乙女心は今に変わらぬ。
  スカンポの若い茎をかむと、爽やかな酸味が快い。中国最古の詩集「詩経」にそれが記され、「かにかくに祇園は恋し………」の歌で知られる歌人、吉井勇も「いとけなき日のスカンポの味が忘れられぬ」と歌う。欧米ではサラダにも使います。
  スカンポもツバナもほぼ世界中に分布。古今東西に郷愁を誘い、かにかくに(とにもかくにも)、懐かしい味ではないか。

               2004.05.09 四季散歩道より

『兄弟(姉妹)』
 2日、千葉の姉(次姉)の家に行きました。埼玉の長姉と娘(夫と長男、長女)が来ていました。潮干狩り(船橋市)に行って来て、とったアサリを食べました(美味しかった)。午後4時頃、両親の眠る墓地に行きました。そして、長姉たちは別れました。3日は義兄の運転でドライブ〜関宿城博物館に行きました。良い天気なら展望が良いと思いました。関宿城で、何か聞いた事があると思っていました。そして、戦中の最後の首相・鈴木貫太郎(本を読んで)である事を見つけました。昭和天皇が終戦を決めるとき、首相・鈴木の決断(8月15日)であると思います。関宿城博物館を出て、せんべいの喜八堂に寄って、JR柏駅に着きました。姉たちと別れて、電車で家に帰りました。3時間ぐらいかかりました。
曇りで少し寒い日でした。疲れた おと

               2004.05.04 おとより

『空海と高野山』
 肉類をあまり召し上がらない明治天皇の滋養を気遣い、参議の大久保利通が大いに肉食を、と進言しました。天皇がお答えになる。「肉食の効能は知っているが、菜食の徒にも空海があるぞ」。
  大久保は言葉に詰まったと、「先朝遺聞」という書物が伝えています。真言宗の開祖にして「三筆」に数えられた能書家、教育や文学、社会事業にも大きな足跡を残した人を引き合いに出されては困っただろう。
  空海が仏教を学ぶために唐に渡って、今年で千二百年になります。 記念の「空海と高野山」展が東京・上野の東京国立博物館で開かれています。
  国宝「阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅらいごうず)」があります。 運慶の「八大童子立像」、快慶の「孔雀(くじゃく)明王像」があります 。 金銀の文字でつづられた経文があります 。 空海がまいた種の豊穣(ほうじょう)な実りはどれも、見る者の襟を正さずにはおかない厳しさと美しさをたたえています。
  一心に鑿(のみ)を振るい、筆を動かした人々のまなざしが浮かんでくる。濁世(じょくせ)を生きることの苦しみや悲しみと格闘した、その心の戦跡を歩いているような気持ちになった。
  空海の詩文の一節に、「山川は長くして万世なり、人は短くして百年なり」(性霊集)とある。短くとも憂きことの詰まった人の一生である。天才ならぬ身はせいぜい栄養をつけて、戦っていくしかないのだろう。ときにはお酒の援軍も仰ぎつつ。
               2004.05.01 手帳より
追伸
昨日(4月30日)、友達と鎌倉(長谷寺、鶴岡八幡宮など)に行きました。小田急線・藤沢駅に着いて、江ノ電(フリーパス)に乗りました。湘南の海を見えはじめました。空気が綺麗かなぁ。長谷寺駅を下りて、長谷寺に行くとき、車イスの人たちとお話しました。 そちらも長谷寺に行くとの事です。長谷寺に着いたら、人が多かった。修学生たちや遠足の子供たちも多いよ〜〜。長谷寺は登らないとだめです、きついよ〜。長谷観音(お祈り)を見て、海を聞きながら休みました。長谷寺ではカイウ、キンシバイ、キンブ、シャカ、セッコウなどが見えました。
  長谷寺を出て、江ノ電を乗って、鎌倉駅に着きました。歩いて鶴岡八幡宮に着きました。木陰の場所で、食事を食べました(休みも〜)。鶴岡八幡宮を登るのは無理ですので、心でお祈りしました。帰る途中、ぼたん庭園がありました。入ると料金が必要でした。人々がかなりいました。絵具で書いている人もいました(カメラ好きも〜)。 鎌倉駅(江ノ電)から藤沢駅まで乗って行きました。中で遠足の子供たちがいました。先生は大変でしょうね。良い天気で良かった〜、また、、

               2004.0501 おと

『知床』を世界自然遺産へ
☆シリエトク(岬・地の果て)に生きる命。 流氷の海に舞うオオワシ。幻の神鳥と呼ばれるシマフクロウ。知床半島では、渡り取りを含め260種以上もの鳥種がみられます。エサが豊富な知床半島沿岸には、海鳥のほかにクジラやシャチも顔を見せ、トドやアザラシ、ヒグマなどの野生動物たちも集まります。美しい知床連山に目を向ければ、ここだけに自生するシレコスミレをはじめ、800種以上の可憐な高山植物が咲いています。「知床」はアイヌ語で「シリエシク」(岬・地の果て)」。その名の通り、人間を寄せ付けない切り立った断崖絶が、世界的にも貴重な原始の自然をそのまま残しています。そして今、その宝ものを次の世代に残すことが私たちの大きな使命です。

☆国内3番目の世界自然遺産登録へ。「知床」は世界自然遺産の候補地に選ばれ、これから1年間の審査を経て、2005年6月に登録の可否が決まります。世界遺産には「自然遺産」「文化遺産」「複合遺産」があり、中でも審査が厳しい自然遺産は149件、国内では、屋久島、白神山地の2件しかありません。知床が候補地に選ばれた理由の1つに、海と川と森をつなぐ、“いのちの連鎖”があげられます。 知床は、流氷が接岸する世界最南端の地。流氷がもたらすブランクトンが糧となり、魚、鳥、動物へといのちをつないでいきます。 多くの希少動物が生息しているのも、自然のままの食物連鎖が形成されているからです。野生動物たちに残された最後の楽園「知床」に、世界の注目が集まっています。

☆次の世代に残したい、大切な宝もの。 北海道の斜里町と羅臼町。知床とともに暮らしてきた町では、自然を守るための活動が地道に続けられてきました。開拓で失われた原生林を復元する植樹運動、海岸に漂着するゴミの清掃活動など、住民の熱意と努力が「世界自然遺産」への大きな一歩となったと言えるでしょう。この知床を守り、生かし、次の世代に残していくためには、さらなる知恵と努力が必要です。知床を見つめることは、「人と自然との共生」を実現することでもあります。北海道が誇る日本の宝ものを、地球の財産へ。「世界自然遺産・知床」の実現をめざし、心をひとつに次の一歩を踏み出しましょう。

               2004.04.26 四季より

『愛花週間』4月23〜4月29日
 この時期、あちらこちらで自然の新しい息吹と出会うことができます。野山に咲くユリやリンドウ、都会の片隅に芽生えたヤクルマソウやタンポポ……。
 一生懸命に生きようとするその姿は健気でもあり、愛らしい。その姿を眺めていると、自然と笑みがこぼれます。
  さて、間もなく「みどりの週間」がはじまろうとしています。そこで、この「みどりの週間」を『愛花週間』として位置づけ、あなたのまわりを色とりどりのお花で飾ってみてはいかがでしょう。

               2004.04.21 四季より

『本の栞(しおり)』
 文章を練るに適した場所として「三上(さんじょう)」を挙げたのは、中国宋代の政治家にして唐宋八大家のひとり欧陽脩です。三上とは、馬上、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)(トイレ)を指ます。
  作家の鶴ヶ谷真一さんは読書にもあてはまりそうだと随筆に書いています(白水社「書を読んで羊を失う」)。枕上、厠上はそのままとして、馬上は現代ならばさしずめ、列車など乗り物の中でしょうね。
  まもなく「世界 本の日」(4月23日)がめぐってきます。日本ではちょうど大型連休の前にあたります。書店をそぞろ歩いては旅行かばんに収める一冊を選びながら、ひとあし早く旅ごころを味わっている本好きの方もいるに違いないでしょう。
  その日をはさんで22日から4日間、東京・有明の東京ビッグサイトではアジア最大の書籍見本市「東京国際ブックフェア」が開かれます。近くにお出かけの折は、立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
  秋の読書といえば「灯火親しむべし」の言葉の通り、夜更けの机に向かう情景が浮かんでいます。春の読書には、車窓から差す陽光のもと、「馬上」ならぬ「車上」がよく似合うのでは?
  田辺聖子さんの「川柳でんでん太鼓」で教えられた句があります。「本の栞(しおり)少し動かし旅終る」=近江砂人(おうみさじん)=。車窓を流れる若葉、色とりどりの花にでも見とれていたか。栞の動かない旅もまた、いい〜〜。

               20040.20 手帳より

『天にも地にも春一番』
 4月は、人も花も陽気も激しく変わる。時に嵐も吹くが、それをやり過ごして、うららかな日、春の野辺に座れば「すべて世は、こともなし」と、気が晴れます。空にヒバリでも鳴いてくれれば、駘蕩たる気分になるだろう。 野を去り町に戻れば、通りを歩くだけで繚乱たる百花に出会うだろう。赤、ピンク、オレンジ、黄、青、あい、紫と、あらゆる色がそろう。最近、真っ黒に見えるパンジーまで現れた。ここでは絞って、スパラクシスというアヤメ科の花と、ミツバケビの花を、お目に掛けたい。
  スパラクシスは、直径4?ほどの花が、外側と中心部とでくっきり二色に分かれており、きわめて鮮烈。陽がかげると閉じてしまうので、見かけたら、急いで眺めなければならない。外側が緋色、中心の部分が黄色いのが普通だが、ピンクに黄色い目、白に黒い目のも粋。丈は、チューリップほどで、4月、5月だけの花です。 本来、野山に生えるアケビとミツバアケビは、町なかでは、垣根にからませたり、アケビ棚にしたりします。二類とも花時は3月末から4月初めです。アケビは、五つ葉で花は薄紫、ミツバアケビは三つ葉で、花は黒に近い暗紅色です。それを陽に透かかすと、ガーネットの色になり、はっとするほど美しいです。雄花が1センチ足らず、花の穂の先に小さな雄花が固まっています。
  サクラソウの咲く花壇や、タンポポやクローバーに目をやると、地上15センチ足らずのところにはビロードツリアブがいます。1センチ足らずのアブで、ハチドリさながらの空中停止飛行で花の蜜を吸う〜。横浜では、4月上中旬にしか姿を見せない“季節限定の春の使者“です。縫いぐるみの様に可愛いから、よく見てやってください。アブといっても、決して人は刺しません。
  夜空には「春の大曲線」が見えはじめました。北斗七星のひしゃくの柄の描くカーブに沿って南に、北斗七星の長さほど目線を動かすと、黄色に輝く一等星アルクトゥルスが見つけます。そのまま、また北斗七星分ほどで、乙女座の美しく青い一等星スピカに行き着く。この二つの一等星と北斗七星とを結ぶ、北から南に広く走る曲線は、一目では見渡せぬが、どなたにもすぐわかる空の一筆書きであります。
  こうして、天にも地にも春が満開します。そして4月ならではの、別れが惜しい出会いがあります。

               2004.04.07 四季散歩より

『セリは』
 23区内のあちこちに水田が残っていた40年ほど前、東京近郊の春は、「セリ摘み」から始まりました。水たまりや小川の脇に自生するセリは、枯れ草の中から最も早く顔をのぞかせる緑だった。
  それを摘み取ってゆで、酢じょうゆなどで食べきした。味と香りはミツバに似ているが、より野性味が強い。特有のほろ苦さは、東京近郊に春を告げる味でもあります。だが、宅地化が進み、水田は姿を消した。小川も水質が悪化した。わずかに生え出るセリがあっても、ドブのような水の周囲では食欲もわかない。そのうちセリは見向きもされなくなりました。
  農水省によると、セリは野菜として栽培され、年間3、075トンが販売されています。主産地は茨城、秋田、宮城県などです。露地ものが大半だが、ハウスものも89トンあります。
  秋田名物の「キリタンポ鍋」にはセリが欠かせない。比内鶏のスープに一番合うからだ。産地直送の鍋セットには30センチほどもあるセリが入っています。ハウスものだろうか?
  秋田出身の友人は“露地もの説”を採る。「昔は雪の中からセリを掘り起こしていた。セリは冬の秋田でも育つ」という。都心から離れれば首都圏にも水田は残っています。下水道の普及で、小川の水質は改善されました。田起こしが始まる前、郊外に足を運び、久しぶりにセリの顔を拝みたくなった。

                2004.04.05 手帳より

『団就職用の臨時集列車』
 作家の出久根達郎さんは15歳で上京するまで、電灯は夕方になれば自然にともるものだと思っていたと言われています。「人がスイッチをひねって点滅する、とは知らなかった」と、随筆集「いの一番」に書いています。
  家は石油ランプだった。出久根さんが郷里・茨城の中学を終え、いわゆる“金の卵”のひとりとして上京したのは1959年(昭和34年)です。
  親もとを離れて東京や大阪に出た集団就職の若者たちは少年の、少女の面影を残していただろう。 見るもの聞くもの珍しい都会の生活に心躍らせ、とまどいながら、高度成長の裾野(すその)を支えていたのでしょう。
  初めての団就職用の臨時集列車が青森駅を出発し、上野駅に向かったのは1954年(昭和29年)の4月5日、まもなく50年になります。“金の卵”の第一期生も還暦をすぎました。
  白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」はやがて、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」に変わり、いまは都会も地方もなく、「新三種の神器」(薄型テレビ、デジタルカメラ、DVD録画再生機)の時代です。電灯に驚く人はもういないでしょう。
  一昨年亡くなった歌人、富小路禎子(とみのこうじ・よしこ)さんに晩年の一首がある。「服あふれ靴あふれ籠(かご)にパンあふれ足るを知らざる国となり果つ」。顧みて輝かしく、少々ほろにがい50年であるでしょう。
  テレビで昨日か今日、「井沢八郎さんが『あゝ上野駅』を上野駅で歌っていましたね」。おとには集団就職をしないけど、先輩たちが良きも悪きもあるのでしょうね。

                2004.04.03 手帳より

『春の横浜へ』
 日曜日(28日)加藤さんと横浜の三渓園に行きました。家を午前9時半頃でて、横浜駅に午前10時半頃に着きました。1時間かぁ、近いなぁ。バス停までは離れていました。もう待っている人が多く、立っていたら若い恋人の女性が男性をたたいておとを座らせてくれました。その後、年寄りのため、女性も立ちました。久しぶりに気持ちいい若者に会いました。降りる時、若い恋人たちに「ありがとうございました」と言いました。
  三渓園に着いて、入る時、障害者手帳を見せたら入場料はただでした。大池を見ながら休みました。桜はいろんなものがありますので7分ぐらいや2.3分もありました。観心橋を通って涵花停まではサクラが綺麗でした。加藤さんにおとの写真を撮ってもらいました。三渓園茶寮で天ぷらソバを食べました。食べ終えて、加藤さんが「旧燈明寺三重塔を見に行きましょう〜」と言われました。旧燈明寺三重塔に行くのは山(?)を登らないと〜〜、加藤さんに「だめですか」と言われたので「昇仙峡に行った時、ケーブルカーに乗って、一番上まで行きましたよ〜」と言いました。 しかし、きつかった〜下りるのが大変でした。旧燈明寺三重塔を出て、左に行ったらもう南門で、出口でしたので、戻りました。
  合掌造、鶴翔閣などを見ながら三渓園を出ました(午後2時頃)。タクシーを乗って、山下公園に行きました。パノラミックビューに行きました。横浜港や山下公園、元町などが見えました。パノラミックビューを出て、山下公園を通って、赤レンガ倉庫に行く途中、大道芸をしていました。イギリスの人がしていました。日本語も大変うまかった〜〜。午後4時頃、赤レンガ倉庫に着きました。パンジーが綺麗でしたよ〜。
  家に午後6時頃、帰りました。加藤さんにはありがとう〜〜。10・ぐらい歩いたのかなぁ、疲れて良く寝ましたよ〜。 加藤さんの写真(友達から)も見て下さいね。

                2004.03.31 おと

『春〜プロ野球始まる』
 大リーグの花形、ベーブ・ルースの年俸がフーバー大統領の年俸を超えたのは、1930年のことです。「大統領よりもいい仕事をした」。批判めいた一部の声に、ルースはそう答えたという◆路上生活者が体に巻いて暖をとった新聞紙が「フーバー毛布」と呼ばれるなど、世界恐慌にさんざん手を焼いた大統領には気の毒だが、白球のアーチで人々の心に希望の灯をかざしたルースの言葉は、多くの人の実感でもあったろう。 ルースを含む大リーグ選抜が来日したのは34年(昭和9年)です。対戦した全日本チームが母体となってその年、現在の読売巨人軍が創設されました。日本のプロ野球は今年、70歳の節目を迎えました。
  好敵手という言葉はこの二人のためにあるような水原茂、三原脩の名将対決があった。文字通り息もつかせぬ長嶋茂雄、村山実の名勝負があった。 米国人にとってルースのホームランがそうであったように、敗戦の焦土から復興の道を歩く日本人を慰め、励ました場面を挙げていけば、ファンの数だけあるに違いないでしょう。
  野球の好きだった正岡子規は歌にいう。「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな」。パ・リーグはきょう開幕し、ヤンキースとデビルレイズによる東京での大リーグ開幕戦ももうすぐ。 そぞろに胸の打ち騒ぐ春ですね。 長嶋茂雄監督、昨日、東京女子医大病院を退院して、リハビリのため、どこかに〜〜。 選抜高校野球で東北高校のダルビッシュ投手、ノーヒットノーランしましたね。
  近くの公園に桜を見に行きました。アルバム、旅行に載せています。

                2004.03.27 手帳より

『あなたの血管年齢は?』
 「あなたの血管年齢は、暦の年代より若いです」。こんな形で血管の「老化」を判定する検査が登場した。脈が血管の壁を伝わる速度や血圧を基に、血管のしなやかさを調べる「血管機能検査」。動脈硬化の進み具合を数値化して診断するのが狙いだ。「CAVI(キャビー)」とも呼ばれるこの検査は、心電図や血圧測定と同様の簡単な方法で実施できる。心筋梗塞(こうそく)などの予防に役立てる研究も始まっています。心臓の筋肉に栄養を送る血管が詰まる心筋梗塞や、脳の血管が詰まる脳梗塞は、血管が老化して硬くなったり、もろくなったりする動脈硬化に伴う病気だ。これらの病気のなりやすさを予測する検査に、コレステロール、血圧、血糖値などがあるが、いずれも血管の状態を直接調べる方法ではない。これに対し、血管の老化度をじかに把握しようというのが血管機能検査だ。
  手首や首筋で触れる脈は、血液が心臓から送り出された際の振動が、波(脈波)として血管壁を伝わったものだ。脈波の伝わる速さは、血管が硬いほど速くなる。例えば、細長いゴム風船に水をいっぱい入れてゴムが伸びきった状態にし、指ではじくと振動は素早く伝わるが、水が少なくゴムの張りに余裕があると、振動はゆったり伝わる。 これを応用し、脈波の速さによって血管の硬さを調べる「脈波速度検査」が従来、行われてきた。それを改良したのが新検査法だ。
  同じ量の血液を送り出すにも、血管が老化して硬くなるほど大きなエネルギーが必要になる。新しい検査法は、これに着目、脈波速度を基に、血管の老化度を運動エネルギー消費量で表す。若々しい血管は省エネ、老化した血管は浪費タイプになる。 検査では、血圧測定用のカフ(ゴム袋バンド)を上腕と足首に巻き、胸に心音を探知するマイクを装着。心臓から足首までの距離を測り、心臓と足首での脈波の時間差から、まず脈波速度を割り出し、コンピューターが血圧を加味して数値を計算する。検査は数分間で終わる。
  CAVIは「心臓・足首・血管指数」の英語の頭文字から名付けられた。数値は年齢とともに上昇することから、同年代の平均に比べ、血管年齢が若いかどうか判定しています。 「脈波速度が大きいほど心筋梗塞や脳梗塞の恐れが高まっています。このデータをCAVIに当てはめることで、生活習慣病の予測や予防が可能になる」と期待しています。
  従来の脈波速度検査は、閉そく性動脈硬化症などに保険適用され、新検査も保険がきく。動脈硬化の検査として有用か、さらに研究が必要だが、血管年齢を知ることで、食事や運動など生活習慣を見直すきっかけにもなりそうだ。おともコレステロール、血圧、血糖値があるので、、、。

               2004.03.20 情報より

『春の訪れ』
 長野県上田市の美術館は鉄道の駅から水田沿いの小道を歩いて行くと見えます。小さなお社の前を通り、名前にひかれて立ち寄った。「泥宮(どろみや)」という。
傍らにある由緒を記した立て札には、「泥をご神体としてあがめた」と書かれています。泥は稲を育てる母、ともいわれます。田植えの春、農家の人たちは稲のつつがない成長を泥の神様に祈り、実りの秋には感謝の心を捧げてきたのでしょう。
  雪や霜の解けた春のぬかるみを春泥という。生活には難儀の種になるものを美しい名前で呼びならわした心理には、春の到来を祝う心のほかに、「稲の母」への信仰も遠く響いているのかも知れません。
  東北地方などのコメどころは、昨年、冷夏と長雨に泣かされた。鮮やかな緑色であるべき夏場に、一面褐色で覆われた水田もあった。春を迎えて泥への祈りは切実に違いないでしょう。
  戦争中、信州に疎開していた佐藤春夫に、方言でつづった「春のおとづれ」という四行詩があります。「大降の後三日四日/異なお天気でごわしたが/かげどけしやす今日あたり/春でごわすぞこれからは」(詩集「佐久の草笛」)。
  「かげどけ」は「日陰解け」だろう。道で出会った農家のあるじが、詩人に語った言葉でもあろうか。ほころんだ顔が目に浮かぶ。「春でごわすぞ」の声が春泥の北国から届く日も遠くない。  春がもうすぐ〜〜。

               2004.03.14 手帳より

『旅たちの季節・桜の花』
 旅たちの季節を迎え、桜をテーマにした二つの曲が卒業式ソングとしてあちこちで歌われています。
  √僕がそばにいるよ 君を笑わせるから 桜舞う季節かぞえ 君と歩いていこう

  河口恭吾さんの「桜」は、昨年12月の発売以来40万枚のヒットとなりました。商店街の有線放送でもよく聞こえます。アコースティックギターで、しっとりと新たな旅立ちを歌え上げます。
  河口さんは今月、千葉県の中学校などの卒業式ソングでライブを行えました。一人と「人とのつながりについて考えていた時、部屋から見える桜に、曲の着想を得た。卒業を意識したわけではないが、共感してもらえてうれしい」と話しました。一昨年発売さらた「さくら」も、新たな卒業式の歌となった。
  √さらば友よ またこの場所で会おう さくら舞い散る道の上で

  桜と言えば、まず連想するのは入学式ですね。校庭の桜に見守られ、ランドセルを背に、校門をくぐった記憶がかすかに思います。
  ところが最近は入学式に桜が散りはじめていることも多いです。関東周辺で3月中に桜が開花する地点は増える傾向にあります。記憶に新しいのは一昨年。東京では3月16日に開花し、満開の桜の下で卒業式を迎えた学校も多かった。
  卒業式の歌も移り変わりました。「仰げば尊し」「蛍の光」といった曲は影が薄くなりました。代わって「贈る言葉」「卒業写真」などが入退場時に流れるようになりました。
  散る桜には、別れのイメージがあります。ヒット中の桜の歌も、旅立ちの舞台に確かになじむ。
  2月以降の気温が高かった今年、気象庁は桜の開花が全国的に早まりそうと発表しました。「桜と言えば卒業式」と連想するこの頃です。

               2004.03.13 情報より

『長島監督早く…』
 与謝野晶子にひまわりの異称、こがねひぐるま(黄金日車)の歌があります。「髪に挿せばかくやくと射る夏の日や王者の花のこがねひぐるま」。森鴎外は妹にあてた手紙でこの歌に触れています。
 ひまわりを挿すには、「女の顔は直径五六尺なくてはかなうまい」(一九〇五年八月)。楽しい感想は感想として、天空から光を集めては人の顔を明るく照らし出す「王者の花」の趣は、歌の通りかも知れない。
  復興への坂道を懸命に歩いた日本人の心を、照らした花があります。笑顔ひとつ、一挙一動で人々を元気づけた背番号3、長嶋茂雄さんは「戦後」という髪に挿された超特大のひまわりであったではないか。魅力は六68歳のいまも衰えていなかった。 体の変調を訴えて緊急入院し、「中程度の脳梗塞」と診断されました。命には危険がないという病院の説明に胸をなでおろしつつも、まだ不安定と伝えられる病状を案じているファンは多い。
  アテネ五輪で野球日本代表の監督を務める長嶋さんは先月、プロ野球のキャンプ地を精力的に視察しています。疲労もあったに違いないでしょう。
  ヒット曲の歌詞ではないが、ナンバーワンというよりも、オンリーワンの「こがねひぐるま」では。心身を休めて養生し、見る人の胸にぽっと灯をともすあの笑顔を携えて帰ってくる――その日の早いことを祈り申し上げます。

                 2004.03.06 手帳より

『水が包む』
 「もう少し、がんばって」「もっと手を大きく伸ばして」―――。
福岡県春日市のクローバープラザで開かれている身体障害者水泳室。 手足が不自由な人や視覚、聴覚に障害がある人など23人が参加しています。指導にあたるのは、講師2人とアシスタントのボランティア計約10人です。 2ヶ月ごとに募集するが、毎回、抽選になるほどの人気ぶりです。
  福岡県太宰府市の佐藤さんは、左半身がマヒです。参加して3年です。「最初は、おぼれそうで、水に入るのさえ怖かった」が、今では息継ぎの練習をするまでになりました。「これまでは家にこもりがちでしたが、ここに来ると、たくさんの友達が出来るのが何よりも楽しみ。生活が明るくなりました」と笑顔を見せる。
  プールの中で、励まし合う声が遠く、近くこだます。心と心のふれあいを、水がやさしく包んでいます。

               2004.03.03 素敵な障害者水泳室

『梅の季節』
 天神さま、菅原道真は幼名を「阿呼(あこ)」といった。5歳のときに詠んだ一首が残っています。「梅の花 紅の色にも似たるかな阿呼が頬(ほほ)にもつけたくぞある」。
 大宰府に左遷された折、住みなれた紅梅殿の梅に歌いかけた、「東風(こち)吹かば匂(にお)ひおこせよ梅の花…」の一首はいまも広く親しまれています。早熟な天才児と、政争に敗れた流されびとです。ふたつの面影を花に映じた、梅の人であります。きょうの「建国記念の日」は昔の紀元節、別名を梅花節という。東京・湯島天神の境内も、咲き匂う白梅に交じり、阿呼ちゃんが頬につけたくなりそうな暖かい色の紅梅がほころびています。
  わが子の合格祈願だろう、一心に手を合わせる人もいるでしょう。受験を控えた中・高校生も〜引いたおみくじに顔を寄せては笑いさざめいているのでは。天神さまも忙しいそうですね。
  厳寒のなか、ほかの花に先駆けて咲く梅は、春告草(はるつげぐさ)とも呼ばれます。不安と緊張の冬を過ごしてきた受験生は、学問の神様の御利益にもすがり、待ちかねた春を一刻も早く告げて欲しい、心せく思いでしょう。
  手もとに届いた垣内磯子さんの詩集「緑色のライオン」(銀の鈴社)に、「足跡」という短い詩があります。「五弁の梅の花を散らばしながら/猫が敷石の上を歩いていった/春/近し」。もうひと踏ん張りの季節です。 今日、散歩したら少し咲いている梅を見ました。アルバムに県ダーツ大会と梅をのせました。

               2004.02.11 手帳より

『大豆 イソフラボンで「がんは外」』
 もうすぐ節分。「鬼は外、福は内」は豆まきだけに限らない。栄養が詰め込まれた大豆を上手に食べて、体の中に福を呼び込もう。
 ◆繊維、カルシウムも豊富 「カブの豆乳あん」(左手前)と「豆まめサラダ」(右)。 左奥は豆乳ドレッシング 大豆はコメ、麦などと並ぶ「五穀」の一つ。一口に大豆といっても、コメと同じように数十種類もの銘柄がある。微妙に味に違いがあるが、どれも栄養価は高い。「畑の肉」と言われるほどたんぱく質が豊富で、食物繊維、カルシウム、鉄分、ビタミンB、Eなども多い。
  大豆で注目されているのは、がんを防ぐ効果だ。厚生労働省研究班の調査で昨年、みそ汁を1日3杯以上飲む人は、1杯以下の人に比べ、乳がんの発症率が42%も低いことが分かった。 豆腐、納豆、油揚げなど大豆製品をほぼ毎日食べる人も、食べない人に比べて発症率が19%低かった。
  東京農大教授の渡辺さんは「欧米に比べ日本人に乳がんや前立腺がんが少ないのは、加工食品で多くの大豆を日常的に取っているから」と言う。日本人は、大豆の9割をみそ、豆腐、納豆で取っている。
  乳がん予防効果は、大豆に含まれるイソフラボンという植物性ホルモンの働きとみられる。ホルモンとして作用することから、大豆製品には、前立腺がんの減少や、顔のほてりなど更年期障害の緩和、骨がもろくなる骨粗鬆(こつそしょう)症予防などの効果が証明されている。 ほかにもコレステロール低下、肥満防止、肝機能向上などが動物実験で明らかになっている。
 食べる量は、1日に納豆1パック、豆腐半丁、みそ汁3杯が目安。これで50ミリ・グラムと十分なイソフラボンを摂取できる。足りないようなら、豆乳飲料やサプリメント(栄養補助食品)を利用する手もある。

               2004.01.30 情報より

『自分自身は』
岡山県津山市にある「つやま自然のふしぎ館」には、化石や世界の希少動物の剥製(はくせい)などと共に、ホルマリン漬けにされたヒトの心臓や脳などが、展示されています。
創立者の森本慶三は内村鑑三に師事した宗教家、教育者です。 人体は、神の創造した自然の一部という信仰があった。 40年前、89歳で亡くなったその人の臓器が、本人の遺志により館内に陳列されています。 人体展示の先駆けであろう。 その後、細胞を樹脂で固める保存法が開発され、人体標本が公開される機会は、増えているようだ。
東京国際フォーラムでは、献体を展示する「人体の不思議展」が開催されています。脳を手にとって、その重さを体感するコーナーには長蛇の列ができていた。 一昨年の春に大阪で開幕して以来、各地を巡回中で、入場者総数は約200万人に越えました。
この企画の監修委員の一人で、脳に詳しい解剖学者、養老孟司氏の話題作「バカの壁」(新潮新書)も、290万部のベストセラーです。 人の思考を停止させる“バカの壁”について、脳のメカニズムを解明しながら論じています。
現代人の周囲には情報があふれているが、肝心な自分自身のことについては、意外と分かっていない。そう気付かせてくれるところに「人体の不思議展」や「バカの壁」の人気の秘密があるのかもしれません。

               2004.01.27 手帳より

『花やしきは』
 映画「下町の太陽」(山田洋次監督、1963年)で倍賞千恵子さんは、東京・向島の石鹸(せっけん)工場に勤める工員を演じました。 貧しくとも、どこかに希望が感じられた昭和30年代の空気を、同名の主題歌とともにご記憶の方もあるでしょうね。
  鉄工所に勤める純朴な青年と知り合い、誘われて休みの一日を遊園地で過ごす場面がありました。ふたりが出かけたのは、浅草の「花やしき」です。 日本の遊園地の草分けである花やしきは幕末の嘉永年間、植物園として生まれました。昔ながらの遊具や気取りのない雰囲気で親しまれ、つつましやかな青春をおくる二人が心なごませた当時のにおいは、いまもそう変わらない。
 花やしきを運営する会社が会社更生法に基づく経営再建を進めることになった。バブル崩壊を境にジェットコースターの製造部門の業績が落ち込んだことが響いたといわれます。 各業界から老舗の苦境が伝えられて久しいが、娯楽の分野も例外ではないらしい。 花やしきの入場者は年間40万人ほどと底堅く推移しており、営業は続ける方針という。「下町の空に かがやく太陽は よろこびと 悲しみうつす ガラス窓…」(詞・横井弘)。甘く、人によっては切なく、それぞれの記憶が重なる遊園地という場所は、過去を映しだす「街の窓」でもあろう。不況風がガラスを曇らせているのか。

                 2004.01.22 手帳より

『新年会と市ダーツ大会』
 11日(日)、市身体障害者協議会で新年会と市ダーツ大会に行きました。いつもより、参加者が多く、ダーツ大会には42人いました。会長の挨拶などを終えて、ダーツ大会。
おとは一番目でした。やり方は101点から0点までです。普通(県などでは)301点からで、ダブルでないとだめですが今回はシングル、出来そうです。短く、すぐ0点まで当たらないと〜〜ダブル、トリプル、ブルズアイが出たら〜〜。最初は一点勝負で勝ちました。2回戦は0点に。3回戦は一点勝負で、一回目は同時、再決戦で、負けました。 ベスト8と思ったら12回がありました。良く解りません、そして、くじ引きで11位です。どうせなら一点勝負をしたかった。 初めてダーツをした人もかっているのが多かったです。あぁ、2月8日(日)、県ダーツ大会に参加する予定です。

               2004.01.11 おとより

『夢と勇気』
 今年は世界の障害者アスリートたちの夢舞台、アテネ・パラリンピック大会です。五輪に続いて9月1日から12日間で開会されます。五輪発祥の地、アテネで初めて開かれるパラリンピックに、選手たちは新たな歴史を刻むと思います。進歩する競技用の車イスや義足、伴走者や補助者と選手との連携など、障害者スポーツならではの見所も多いです。 病気や事故、あるいは戦争などで奪われた機能を、強靱な精神力と厳しいトレーニングによって克服した選手たちですね。おとには‥‥
 晴れの舞台で障害者アスリートたちが繰り広げる真剣勝負は、私たちに人間の無限の可能性を教えてくれると同時に、大きな夢と勇気を与えてくれるでしょう。

                2004.01.03 おと